「ランメルムーアのルチア」        2012.3.14

ガエターノ・ドニゼッティの歌劇「ランメルムーアのルチア」については一度「音楽のすすめ」第1章第15話「ランメルムーアのルチアの陰影」に記した事があります。脚本は英国のサー・ウォルター・スコットの原作「ランメルモールの花嫁」なんですが、どういうわけかウォルター・スコットの銅像がニューヨークのセントラル・パークにあるんですよ。猟奇的な殺人事件として描かれています。とにかく暗い。さんさんと太陽の光が降り注ぐことなく、陰気な霧が立ちこめています。また大道具には棺桶も墓標も。その音楽まで暗い雰囲気を引きずっています。だからこそ歌劇中の「狂乱の場」だけがもてはやされるという点もあるのではないでしょうか。作曲されたのは1835年。ちなみにベートーベンの「フィデリオ」改訂版が作曲されたのは1814年頃です。

昔初めて「ランメルムーアのルチア」という題名を聞いたとき、最初に思ったのは、これはいわゆるベルカント唱法による音楽なんだ、さてどんな物だろう、と言うこと。その疑問に答えてくれるだろうと、「ランメルムーアのルチア」のレコードを「みずてん」で買ってしまいました。以前書きましたが少し繰り返しましょう。エリカ・ケートの自伝によると、ケートは「ランメルムーアのルチア」みたいな音楽が嫌いでした。それはケートだけでなく、ドイツ文化圏全体を覆っていた雰囲気でしょうか。「ランメルムーアのルチア」はいわばソープ・オペラ(日中にやるメロドラマ。米国では石鹸会社が主なスポンサーという例が多いのでこう呼ぶ)であり、ああいう歌を好む人は見せびらかしにしか関心の無い人、芸術なんて考えるのは無駄、単に流行歌のごとく鼻歌を歌うだけ等。そういう風にしてケートが「ルチア」を歌っていたらカール・ベームに怒鳴られました。「モーツアルトの時のように真面目にルチアを歌いなさい!」。「ルチア」が単に街のアコーディオン弾きのための音楽じゃないんだ、ということです。しかしそういう雰囲気はドイツから遠く離れた日本にも伝染しました。

そういう理由で日本でも芸大を中心とするアカデミックな世界ではドイツ・リートが好まれる反面、オペラなんてまるで相手にされませんでした。淡谷のり子がたとえ10年に一度のソプラノであっても、歌う場が無かったのです。しかしオペラというのは大衆芸能から出発したものです。モーツアルトだってオペラを書きたくて仕方が無かったのです。ワーグナーもオペラ(と言って欲しく無ければ「楽劇」)でこそ実力を発揮しました(ワーグナーの他のジャンルの曲は、サッパリです。米国の友人Cは、私に聴かせて「どう思う?こんなジャンク」と述べました)。ベートーベンだけはオペラの流儀に合わなかったのですね。と言うより、オペラ的なあいまいさ、ファジーな要素、ソプラノがその晩、声が出なかったら指揮者はそこでテンポを落とす、等の約束事、そして大勢が協力してオペラ上演の成功を計るという姿勢が、ベートーベンの流儀と馬が合わなかったのです。「ルチア」は学生時代から聴いていて、1年生の時に「狂乱の場」の楽譜を買い、45歳ぐらいの時にフルスコアを買って馴染んでいます。



(213)モノローグ「ランメルムーアのルチア」のあらすじ
「ランメルムーアのルチア」の舞台はスコットランド、時代はイングランドのエリザベスとスコットランドのメリーが競っていたころ。まずレーヴンスウッド城の外でルチアの兄のエンリーコと家来のライモンドが現れ、城を維持するにはもうルチアをしかるべき貴族に嫁がせるしか無い、と嘆きます。またノルマンノは恐ろしいうわさ話がある、とルチアのこっそり会っているらしい男の話を告げます。それは仇敵エドガルド(城の元の持ち主)に違いない、と言うものでますますエンリーコの神経は逆立ってきます。エドガルドとルチアは密会しますが、ここでエドガルドはフランスへ使命を帯びて行く、と告げ、両者は悲しい別れを告げ合い、また互いに指輪を交換します。エンリーコに呼ばれたルチアは結婚することを申し渡されますが、それは出来ない、と指輪の交換をしていることを告げますので増々気分を害するエンリーコ。ライモンドがルチアは母親を無くしたばかりだから、となだめますがエンリーコは聞く耳を持ちません。そしてエドガルドの偽の手紙をルチアに見せ、そのような不実な者だよ、と告げます。このオペラが伝統的な1昼夜の出来事なのか、それとも何日分かをカバーするかは不明です。

やがて結婚式が行なわれますが、ルチアは嘆くばかり。そこへエドガルドが現れ、ルチアの不実をなじり、指輪をルチアの指からもぎ取ります。やがて来客達が舞踏等に興じている所にライモンドが来て、人々を静かにさせ、ルチアが新婚の床で夫たるアルトゥーロを刺し殺したと告げます。真っ赤な血をあびた寝間着を着て、ルチアが下の階へ降りてきます。仰天したエンリーコはルチアを非難しますが、この時ルチアは気が狂っていて、息も絶え絶え。第3幕はレーヴンスウッドの先祖の墓の前で、もはや希望は絶えてしまったのでエドガルドは死ぬ積もりです。人々が現れ、ルチアが気が狂って瀕死の状態だというのですが、やがて死んだことを表す鐘の音が聴こえてきます。もはやここまで、とエドガルドは我が胸をさして死にます。
千葉のF高



(214)モノローグ「ランメルムーアのルチア」の録音について
これは「雨が降ると聴きたくなるオペラ」として私の学生時代に確実な席を持っていました。そしてサザーランド/プリッチャード盤はそれが最初に買ったルチアのLPということもあって、古い時代から楽しみました。CD時代の到来が来て、サザーランドのCD盤ルチアの購入がしばらく遅れたため、少し遠ざかりました。あの暗い感じの表紙絵、何かに祈るような、気が狂った感じが何ともいえず好きになりました。あ〜これがベルカント歌唱ねえ、何となく陰気な感じがするけれど、という印象です。このプリッチャード盤というのは、なぜだか分かりませんが、隠れた状況を描き出そうとしていないのです。悪いと言ってはマズければ、凄い!とたちまちにトリコになるような演奏ではありません。歌手達はあくまで指揮者が示すとおりに、間違いなく、取りこぼしのないように、減点法に耐えられるような歌い方。人がけなすと腹が立ちますが、ここでは自分でけなしました。

サザーランドが有名になったばかりのころ、その2年後にデッカ社が「ルチア」を録音しました。他方、海賊盤(実況盤)しかありませんが、サザーランドが示す録音を聴くと、素晴らしいものです。指揮はセラフィンでした。同様にそのころセラフィン指揮で歌った「夢遊病の女」も良いのです。気迫が違います。捨て身ですし、さあこれでどうだ、と言わんばかりです。もし「ルチア」を聴いたことがない人か、またはサザーランドに対してプラスの評価が出せない人がいたら、ぜひ上記の実況盤をお聴きになる事をおすすめします。不幸にして最初にマーケットに出たのがやや気の抜けた(!)プリッチャード盤だったのはチョッとした彼女の不幸です(当時セラフィンはEMI専属でしたから、彼を起用できなかった)。このあと、彼女の後ろ盾として夫君リチャード・ボニングを起用したのですが、これだって止むえずそうしただけであって、ボニングがそんなに素晴らしい指揮をするわけじゃありません。いつの間にかボニングはサザーランド専用指揮者となり、ほとんど舞台では常に一緒でした。

ひとつだけ、多くの人々の関心を引いた録音がありますが、それはプッチーニ「トゥーランドット」であり、指揮はボニングじゃなくてズービン・メータのもの。先に述べた「こうもり」の引退講演はボニング指揮でしたが、それだけ聴いている時はボニング盤も普通に聴こえたのです。しかし「普通」が大問題だったということは他の指揮者(カラヤンとかクレメンス・クラウス)と比較試聴すると実感できます。フランス・オペラなどは、ボニングと組まなければ実現しなかったでしょうから、一概にダメとだけは言えないのですが、その代わり失ったものも大きいと思います。繰り返しますと、サザーランドは彼女が初期に録音して、最近になってようやく日の目を見たようなCD(私にとって)にこそ彼女の骨頂があり、それを持ち出せばカラスと別の意義(同じ曲でも意義は異なる)で横綱を張っています。やはり彼女は「スチュペンダ(途方もない女性)」とあだ名されて当然な歌手でした。その代わり、45歳以上まで喉を持たせるために歌唱法を少し変えました(実際には66歳で引退)。あのカラヤンでさえサザーランドを追いかけたエピソードがあります。1960年のパリではカラヤンのオーケストラ公演が9時に始まり、サザーランドの公演は別所で8時半からだったのですが、カラヤンは両公演の間の30分間でサザーランドを聴こうと決心、車を飛ばしたのですが、あいにく当時パリは自動車の大渋滞。結局逃したそうです。
千葉のF高



(215)モノローグ 録音されたCD/DVDの比較
実際に私が手元に置いている録音の批評は下記の通り。
(1)CF.シラリオ指揮、A.モッフォ(ルチア)、R,コズマ(エドガルド)、J.フィオラバンティ (エンリーコ)、P.ワシントン(ライモンド)、G.スカールマニ(ノルマンノ)、AM.セガドク(アリサ)、1956年メトロポリタン歌劇場実況、画像付き、VAi、ITALY 69000
これはアンナ・モッフォの為に撮ったフィルム。彼女は美しく、あらゆる所作やポーズはその美しさを際立たせるように撮ってあります。その代わり、その為に払った代償も大きいのです。まずモッフォは殆ど瞬きをしていません。ジッと一点凝視です。さらにエドガルドも同様です。エンリーコはもう少し人間的に表情を変えますが、このルチアとエドガルドの表情の無さは、まるで人形みたいです。またそれは発声にも影響しているようで、エドガルドの死ぬ場面など、まるで腹話術みたいで、余り口を開けないで、フランス語みたいに口の端でホワ〜ワンと発音するのです。気になって仕方がありません。これは映画なので勿論アテレコなんですが、あの口の仕草は余り好きになれません。実演で接した時のモッフォも大層美しい人だと思いました。しかしオペラ全曲となると、もう少しリアリティも欲しくなるのでは。エドガルドが馬に乗って去る場面でモッフォが短い別れを嘆く場面をご覧下さい。おざなりに3回程度後追いのポーズを見せ、そのあとは樹にヨヨと寄りかかって嘆きのポーズ。わざとらしいな。エドガルドの最初の声を聴いたとき、まるでテレビでよくお目にかかる俳優の声みたい、と思いました。高めのキイ音と、やや軽薄な、全体として自転車操業している雑貨屋みたいな響き。頭上には手ぬぐいを巻いているよう、と言えば分かって頂けるでしょうか。その声には貴族らしさが欠如しています。なお、この演出では第1幕の場でコトが起きたのは昼間になっていて、ルチアには日影がつきます。

狂乱の場は通常は正面にある長い階段を降りて来るのですが、このフィルムでは奥の細長い廊下をヨロヨロと現れます。これはどうも演出家の趣味らしい。ちなみに声楽技術に関しては問題はありません。もちろん感情移入が少し薄いのですが、私がルチアと聞いて頭に浮かぶ通りの音を出しています。つまり高音を自在にあやつり、それに余り不満はありません。そもそもルチアって曲は全体としてのトーンは決して高く無く、平均的には中音域に聴きどころが集中しています。ただ、難しいのはそのゆったりした旋律の中程に散らばる超高音域の音符をこなすこと、そしてスタミナ。全体で20ページもの楽譜を歌わなければなりません。

(2)S.ランザーニ指揮、M.デヴィーア(ルチア)、V.ラ・スコラ(エドガルド)、R.ブルゾン(エンリーコ)、K.コロンベラ(ライモンド)、E.ガヴァツイ(ノルマンノ)、F.ソヴィラ(アリサ)、1992年5月、スカラ座実況、画像付き、Eni、BVロ-62-63
マリエラ・デヴィーアのルチア。全曲を通じて印象に残るのはこのデヴィーアと、レナート・ブルゾンのエンリーコ、またカルロ・コロンベラのライモンドです。まずルチアですが、これは声が細い声で顔は丸顔。このミテクレの悪さに少しがっかりします。本人は決してモッフォみたいに、自分の美貌(あれば)を売りにしていません。また音が小さいと書きましたが、必要な音程をカバーしていますし、必要な技術もあり、その限りで十分なものです。少しだけ高音域に以降する時に声が震えますが、それを許容すればこのスカラ座公演は成功です。ただ、スカラ座で成功した、と言う為にはもう少し何かが欲しい。華がないのです。あと少し声が伸びるとか、あの透明感は他所では聴けないくらいのものだ、とか。それが欠如しているのがこの録音最大の欠点です。もし先述のアンナ・モッフォと比較するなら、確かにモッフォには華があり、例え静止画みたいでも、その美しさを理由に数えることは可能だと思うのです。デヴィーアにその決定的なものが見当たりません。ダメだという問題は無さそうですが、積極的に押す理由もありません。一時期、スカラ座周辺にはこのようなソプラノが次々と誕生しましたが、だれが残っているのでしょうか。家庭教師のテノールのコロンベラは少し蓮っ葉な感じがつきまといます。ただコロンベラの声は惹き付けます。ブルゾンは可も無く不可も無い、という感じ。もう一つ気がつきましたが、この演出は午後の日照を感じさせません。おそらくその方が正解です(モッフォの方がおかしい)。

その後通常カットされる場が上演されますが、聴いた結果、これはカットした方が良かったと思いました。そのあと有名な「狂乱の場」があります。つまり気が狂った人が歌うのだからいかなる不合理も可能になるので、ソプラノ達の目立ちたがり性を満足させてきました。幕が開いたあと、ややくすんだ色彩の衣装に身を包んだ合唱が続きます。そして男の声で静かにしてくれ、と言う言葉が響きわたり、ルチアが新婚の床で花婿を刺殺した、と皆に告げます。そして階段からルチアが寝間着姿でフラフラと現れ、狂乱の場を歌います。この場面、少し思い詰めた感じが出れば良いのですが、並の歌手にはそれはできません。このデヴィーアはそれほど狂乱しているとは思えませんでしたが、最高音は高いDが聴こえました。デヴィーアは音を全て出していますし、モッフォほど視線が死んでもいません。ラ・スコラはやや粘液質ですが、音は出していて、少しマシでした。

個別の旋律に気を配りますと、あの結婚の合唱は聴いていると恥ずかしいような気がします。あまりに音が薄くて弾まず、まるで廃鉱の跡上で踊る盆踊りです。ドニゼッティの場合、指揮者は低音に気を配って、このような注文が出ないように作らないと。ドニゼッティの作品の中には「アンナ・ボレーナ」がありますし、あの堂々たる風格も出来るのですから。そのかわり、冷静になってみると「アンナ・ボレーナ」の最後の独唱は、カラス以外録音が余り無いのでは、と気がつきました。中丸三千繪が吹き込んだことがありますが、あれも全力で疾走したあと、いよいよクライマックスに入る直前までしか録音していません。本当にクライマックスの録音をカラス以外の人に求めるのは無理なのでしょうか。ドニゼッティのためにこういう素人の戯言を考えました。

(3)R.ボニング指揮、J.サザーランド(ルチア)、A.クラウス(エドガルド)、P.エルヴィラ(エンリーコ)、P.プリシュカ(ライモンド)、J.ギルモア(ノルマンノ)、A.バイビー(アリサ)、1982年メトロポリタン歌劇場実況、画像付き
リチャード・ボニングの指揮はスカラ座のランザーニよりぐっと速くなります。時としてこんな早さをコーラスは付いて行けるだろうか、と余計な心配をしてしまいました。全体の色調が暗く、スコットランドだということが頭に浮かびます。あのアンナ・モッフォのそれが何かすっきりしなかったのは、明るすぎたからかも知れません。相変わらずノルマンノは声が甲高く、これだけ気になりますが、全体としてさすがキャストを集め易いメットです。肝心のサザーランドですが、当時56歳。普通なら大昔に引退していますが、そこはサザーランド。彼女は1927年生まれ、25歳で英国デビュー、32歳でコヴェントガーデン王立歌劇場で「ランメルムーアのルチア」が成功、45歳位まで持ちこたえ、あとは音が小さく、音色が暗くて不明瞭になって行くのですが、56歳で「ランメルムーアのルチア」を録画しました。ですからこの「ルチア」は既に退潮期に入ってからの録画です。1992年に65歳で引退。そして2010年に83歳で死去。コロラトゥーラ歌手としては異例の長持ち(参考までにカラスと比較しますと、マリア・カラスは1923年に生まれ、1947年にイタリア・デビュー、1951年28歳の時に最初のスカラ座成功、1959年頃から高音を出し難くなり、1965年42歳で最後の舞台、1977年死亡、享年54歳)。

サザーランドは音が一応出ていますが、余裕がありません。腰が痛いのか、殆ど動きませんし、舞台に出る場面になるとよくイスに座っています。相手方と背高の問題からかも知れません。2重唱などはサザーランドに全体を占める役割を託すなど、苦労しているのが分かります。婚礼の合唱の前にあるホールの広さは、実際的なサイズです。スカラ座のランザーニ版のように、とてつもなく高い天井とかもありません。婚礼の合唱は、あの旋律を聴くだけでケ恥ずかしく、顔が赤らむ思いです。これは作曲家ドニゼッティの責任です。もしあれを同時代の作曲家ベルリーニに託したら、とか色々考えてしまいます(実際にはベルリーニの方が早く死んでしまうので、代作を考えてもムダです)。そして「狂乱の場」。これはこのオペラの白眉ですし、いかなる歌手もその出来映えで、ルチア歌いとしての資質を問われます。結論から先に言うとサザーランドはこの長大なアリア(狂乱の場)を歌い出すことが出来ます。いわゆる「血液(ブラッド)」と題される血だらけのガウンを着て現れますが、その血の量はやや少なめです。そしてここでサザーランドは階段の一番上で笑っていますが、これこそ狂乱の印。

第3幕にはルチアはもはや登場せず、相手のエドガルドの聴かせどころです。ここではアルフレード・クラウスが引き受けていますが、クラウスの顔って、どこかの国の財務大臣みたいで、目線がはっきりしないまま歌っています。またサザーランド同様に、腰が痛いのか座って歌います。人々が現れてからもその調子で歌い続けますが、そもそもこの役は余り重視されていませんから、誰でも良いのかも知れません。

(4)W.シュヒター指揮、E.ケート(ルチア)、R.ショック(エドガルド)、J.メッテルニッヒ (エンリーコ)、M.シュミット(アルトウーロ)、G.フリック(ライモンド)、H.テッパー(アリサ)、7243-8-264233-2-6
これは抜粋盤と言った方が良いかも知れません。オーケストラをドライブするシュヒターの指揮がキビキビしているため、猛烈に速いテンポで進行していきます。その速さは驚く程で、どんどん先に進む感じ。そしてヨゼフ・メッテルニッヒの歌うエンリーコが素晴らしく、それに応じてエリカ・ケートの技術等もなかなかなものです(メッテルニッヒがアストリード・ヴァルナイと組んだヴェルディ「マクベス」のCDの海賊盤を持っています)。ただ、注意深く聴くと技術面でチョッとだけ疑問符が付きます。ルチアに対するヘルタ・テッパーの歌うアリサの声の対比もしっかりあって、これは拾いもの、という感じを持ちました。全体のテンポが速い中で、狂乱の場で突然テンポが抑えられるのですが、これはわざと遅めたに違いありません。ここでは誰もがドイツ語で歌っていますが、この言語による印象がかくもあるものか、と思いました。大変クリアに発音され、それが次々と投げ出されるため、曲想がまるでイタリア語版のものと違うのです。ちょっとばかり「セヴィリアの理髪師」のところであったロバータ・ピータースの高音域での声を思わせます。それに、これはオーディオ的にも大変クリアでした。少しだけエコーが掛けてあって、音を大きくしていますが、そうでもしなければ声が聴こえないかもしれません。最初にエンリーコとルチアの対決の場はかなりイージーに歌われ、それだけ味わいに欠けるところもあります。私はこの壮快なテンポに魅力を感じますが、失ったもの、レーヴンスウッドの暗い雰囲気とか消し難い心の悩み、等も大きい要因と考えます。全体として妻ははじめこれは壮快なテンポだと述べましたが、進むにつれまるでミュージカルみたい、と感想を述べました。このCDは山野楽器で購入したものですが、昔ドイツ語で歌うイタリア・オペラのレコードが大量に市場に出回ったことがあるし、こういうのは他にもあると思います。面白い、という一言に尽きます。

(5)U.タンシーニ指揮、L.パリューギ(ルチア)、J.マリピエロ(エドガルド)、J.マナッチーニ(エンリーコ)、M.ジョヴァニョーリ(アルトウーロ)、L.ネローニ(ライモンド)、M.ヴィンチグエッラ(アリサ)、NAXOS-8.110150-1
大変古い録音で1939年録音。リーナ・パリューギという人は余り知られていませんが、おそらく米国の歌劇場(特にメット)に出演した事が無かったせいと思います。音が古いだけ、響きも古く、粉っぽい感じがつきまといます。歌についていうと、最初エンリーコ役のジュゼッペ・マナッチーニのソロが余りに古い発声で随分楽天的だなあ、という印象を持ちます。パリューギが登場したあと、その喉に注意を集中しますと、どうもこのソプラノはあまりトリルの技術を持っていないようです。高い音そのものは良く出ます。それに続く場面でルチアとエンリーコが対決するところを聴くと、ルチアが2つの音の隣あう音譜で高音に向かう時、それを一息に持ち上げないで3階建で持ち上げているのに気がつきました。かつて実演に接したスミ・ジョーでは2階建てでした(曲は別)。勿論そういうことも技術として容認されています。ウーゴ・タンシーニの指揮はキビキビしていて快感です。始めの場面など速すぎやしないか、というくらい速い。第2幕の終わりに向かって行く所は、いわばドニゼッティ・クレッシェンド(「セヴィリアの理髪師」でいったロッシーニ・クレッシェンドみたいなもの)。これは楽しめます。ただ、私は思うのですがパリューギというソプラノは高い音を出せる事にいわば安住しているかも知れないと考えました。その高い音も立派なものですが、それに加えて音を震わす(トリルを付ける)という技術もコロラトゥーラにとって大事です。この録音からは各所で、震わせ損ねているところが感じられました。やや鍛錬不足だったのだろうと思います。その代わり彼女はこの時代の人々からは大事に扱われていたと思います。レナータ・テバルディもトリルが下手でしたが、あれも鍛錬不足でした。でも妻の批評は、もしルチアが20歳位ならば、この声はぴったりだわ、と申します。表現の若さと年齢との関係は私は余り考えておりませんでした。もっとも楽譜通りの年齢なら、イゾルデやブリュンヒルデは17歳程度ですから、ナカナカ大変ですね。

そして「狂乱の場」。これは技術の限りを尽くし、美しさを限界まで示そうとする所ですが、パリューギもそれをやっていますし、後半のカヴァレッタでは突然ですが声が大きくなり、力の限り歌っています。狂乱の場ですから、主役は気が狂っている故、どんな表情でも良いのです。そして第2幕ではエドガルド役のマリピエロは声を潜めて歌ったり、大きく歌ったりして一所懸命に表情づけをやっています。実際この幕のエドガルトは悲しそうな表情が読み取れますが、本当の最後のシーンはあっさり死んでしまうところが不思議。でもこの古い録音でも楽しめることが分かりました。

(6)FM.プラデルリ指揮、R.スコット(ルチア)、L.パヴァロッティ(エドガルド)、P.カプッチルリ (エンリーコ)、G.マンガノッティ(アルトウーロ)、A.フェリン(ライモンド)、AD.スタディオ(アリサ)、1967年トリノ録音、OPERA CD54004
これは抜粋盤というと長過ぎるし、しかし完全な全曲と比すとやはり抜粋なのかな、と思わせます。その結果を聴くとルチアのレナータ・スコットも、エドガルトのルチアーノ・パヴァロッティも絶好調です。特にスコットの発声は千変万化で、あらゆる難所を巧みにすり抜けて行きます。これは本当です。スコットの唯一の欠点は、最高音をキチっと出し難そうなことでしょうか。音は出ていますが、その最高音(全曲に3カ所くらい)を図太い地声で唸るように出して呉れれば申し分ないところ。そういう声はマリア・カラスにしか求め得ないものです。でもその3カ所以外は万全です。こんなにはっきり申し上げられるのは珍しいことです。対するパヴァロッティも申し分のないメロディー廻しです。そしてモリナーリ・プラデルリの指揮の颯爽としていること! これは全曲が音の分離がよく録音されています。実にクリアーです。それは何よりプラデルリがシャキシャキとしたテンポで全体をドライブしていることで、相乗効果が出ています。これを聴いて今まで初めて「ランメルムーアのルチア」がこんなにリズミカルだったんだ、と目から鱗でした。これなら飽きない。日本ではプラデルリって特に高い評価を得ているわけではないと思っていましたが、これならベルカント物も十二分に楽しめるのでは、と指揮者を見直した次第。ただ、スコットとプラデルリは所属するレコード会社が違うのを忘れていました(当時のレコード会社の縛りは大変なもの)。久しぶりに聴いたので改めてCD表面をみると汚れていました。近く掃除する予定です。またピエロ・カプッチルリの歌うエンリーコは始め素晴らしい歌手じゃないか、と思いましたが、途中からこれはむしろ粗野な感じがするな、に変わり、再び普通の歌手だ、と評価が3変しました。

(7)HV.カラヤン指揮、M.カラス(ルチア)、J.ステーファノ (エドガルド)、R.パネライ(エンリーコ)、J.ザンピエーリ(アルトウーロ)、N.ザッカリア(ライモンド)、L.ヴィラ(アリサ)、1955年ベルリン実況、クラウンPAL-2009-10
ご存知カラヤン指揮の「ランメルムーアのルチア」であり、カラヤン唯一のドニゼッティです。カラスをベルリンに招いて行った物ですが、色々と楽しいうわさ話がありますが、余り本当とも思えません。とにかく条件が合わず、その次の立案はありませんでした。いやはや、かたや世界のオーケストラを総ナメにした寵児であり、かたや栄光を背負ったプリマドンナですから、合うはずがない?これは色々な意味で実況録音盤として特異な存在です。あちこち拍手が入り、プロンプタの声が聞こえ、また有名な6重唱で起きた長い拍手については、カラヤンは思い切ってその6重唱全体を繰り返しています。カラヤンとしては珍しいことです。カラスはこれぞカラスだぞっ、という声を聴かせますが、音がそれほどスムースではなく、高音がヒリヒリする瞬間があります。それでもカラスはアチコチにアクセントを付けて歌い、アチコチのポイントで声の技巧を尽くします。全部のカ所で高音で終わっているのはその例。例えばレナータ・スコットも巧く歌っていますが、彼女の唯一の欠点はその超高音がやや弱いことですが、カラスはそれを武器にしています。やはりあった方が良い。エドガルド役のディ・ステーファノは喉を全開した発声で、そのイメージをスラリと見せます。ただディ・ステーファノは横に並んで歌うような場合、自分が一番だということを認めてもらうため、他を押しのけるような歌い方をしています。あの2回繰り返して歌われた6重唱がそうですが、あの最初のクールの歌でそれが目立ちます。その代わり2回目の方は比較的大人しい。カラスと一騎打ちになる第2場では、両者が声を張り上げ、叫ぶように歌うため、聴き終わった時はくたびれました。ルチアの兄のロランド・パネライは可も不可もありませんが、気品をくずすようなことはしていません。そしてアルゥーロ役のジュゼッぺ・ザンピエーリはやや音が高めでしたが、なかなか堂に行ったものです。書き遅れましたがニコラ・ザッカリアのバスは立派なものでした。複数の歌手が自分こそ一番、と信じてプレゼンテーションするのはなかなか壮観です。これはカラヤンにとっても楽しかったことでしょう。

狂乱の場は独立した聴き所ですが、カラスはある所では声を潜め、別の所では開放して咆哮します。声の調子はまずまずですが、私としてはもっと咆哮の程度が大きくても可なのですが。実際のところ、さらに調子の良い日があったに違いありません。絶妙のコントロールを聴く事ができます。そして最後の幕ではステーファノが自分の存在を見せつけます。実際それは声が大きく、十分にコントロールされていましたから。壮絶とでも言えるような声の咆哮でした。最初の見せつけがあった後、アンコールを求める声が当然起きましたが、カラヤンはこれを無視してオーケストラは開始してしまいました。これはカラヤンが正しい。というのはカラスはもう登場しませんが、カラスにしてアンコールは無かったのですから、もしステーファノにアンコールを認めたら、女神が激怒するでしょう。だからこそカラヤンは、その前の6重唱のところで、全員揃ったところで、アンコールしたのですね。

(8)T.セラフィン指揮、J.サザーランド(ルチア)、G.ギビン(エドガルド)、J.ショウ(エンリーコ)、K.マクドナルド(アルトウーロ)、J.ロールー(ライモンド)、M.エルキンズ(アリサ)、1959年ロンドン実況、GDS-21017
これは傑出した録音です。音の点でもキャスティングの点でも気にしなければならないCDです。というのは、指揮しているのがトゥリオ・セラフィンですし、またその時の演出はゼッフィレルリが担当したからです。コヴェントガーデン王立歌劇場は思い切った冒険をしたものです。この公演およびその衣装付き総稽古の様子はすでに知られていますが、なによりマリア・カラスとエリザベート・シュワルツコップが聴きに来たことです。結果は大成功でしたし、その晩を境にカラスはルチア役から手を引きました。この盤は熱気に満ちていますが、結婚式の前のところに聞き慣れない旋律があって、これは(私の耳が確かならば)通常はカットされるところかも知れません。そしてG.ギビンの風邪を引いたような声が感じ取れたのですが、実際その時は風邪だったそうです(Brian Adamsの"La Stupenda",Hachinnson,Australiaによる)。サザーランドの声はやはり若々しいのですが、それにほんの少し、聞き慣れた旋律を引きずるような音も感じ取れるので複雑な心境です。妻はこのCDを聴いて、やはり若い時ね、と感想を述べています。若いという意味を私なりに解釈すれば、どこか従来の解釈から解き放たれようとする意思が時々感じられることです。そして音は自由に空間に飛び散ります。喉の負担を全く感じないこのような録音を全部聴いてみたいものです。そうでないと、オペラのような年齢依存性が大きいものを、公平に判断できないでしょう。このCDは比較的最近(10年以内に)買ったものですが、高名な批評家の諸師はこれをお聴きになった事があるでしょうか。始めの部分でエンリーコは荒々しい声で威嚇するような表現で一貫しています。

そして肝心の狂乱の場。ここでサザーランドは自信に満ちて様々な装飾音を付け、場合に寄っては省き、自在に存在感を示しています。これは良かった。途中で拍手のために一時休止するものの、最後に向かって一直線に進みます。そしてサザーランドの絶妙なコントロールの効いた声で終わります。欠点といえば(これだって取るに足らない)、最後の音が引きずるうちに切れてしまったことでしょうか。それを除くと問題なく成功だったことが分かります。エドガルドはまだ風邪から全快していないようで、危なっかしく音程が震えますが、それを何とかごまかして急ぎフィナーレを作っています。最後にある拍手の大きさから判断しますと、最後にはサザーランドが舞台挨拶に出たような気がします。本当にサザーランドを評価したい場合は、これを聴かなくては本当のことは分からないだろうし、分からないまま書いたものは誤解に満ちたものになる恐れがありますね。高名な批評家の言なんて無視して(参考にとどめて)も良いのです。

(9)I.マリン指揮、C.ステューダー(ルチア)、P.ドミンゴ(エドガルド)、J.ポンス (エンリーコ)、FDL.モーラ(アルトウーロ)、S.レイミー(ライモンド)、J.ラーモア(アリサ)、ユニバーサル・クラシックUCCG3299/80
これは快適なテンポですすむ「ルチア」でした。指揮者は当時30歳になるかならないかの若手のルーマニア人。こういうルチアなら、ベルカント・オペラなんて、という人にもアピールするかも知れません。そしてこの録音はキャストが立派です。シェリル・スチューダーにプラチード・ドミンゴ、サミュエル・レイミーそしてファン・ポンスです。こういう素敵な「ルチア」なら歓迎です。スチューダーの最初の発声は、あまり大好きなタイプとは言えませんでしたが、エンリーコと会う場面から後は凄い。エンリーコと対決する気分を盛り上げています。勿論、エンリーコだって立派なものですが、それに十分に対抗する声なのです。あまり長くグズグズ留まらないで、先へ先へと音楽は急ぎます。当初はエドガルドの声は十全ではありませんが、たちまち全力を尽くすような立派な声になります。実際、このドミンゴによるエドガルドを一度聴いてみれば、その凄さが分かります。こういう英雄的な声を持ち、たぎるような青春を感じさせる声を私は常に欲しています。そして家庭教師のライモンドの声も立派。というより、立派すぎます。もしこういう声が相応しい人物像を描きますと、それは全くの英雄になります。ふと感じたのですが、いままでカラスのような声で、またはサザーランドの声で聴くときは感じなかったことですが、果たしてルチアは結婚式場まで正気のまま現れたのでしょうか?このスチューダーは、その前にあるシーンで強さを主張しているため、これでは納得できないサイン等はしないだろうと思うのです。すると、大きな疑惑が浮かび上がります。このルチアの悲劇、つまりルチアの死んだのは悲嘆に暮れたため、と甘く考えていましたが、実はルチアはエンリーコ等によって体よく殺されたのではなかろうか、という疑問。極めて速いテンポで進むのも歓迎。例えば6重唱のあと、カットされそうな場面がありますが、それを実際に演奏しているにも関わらず、長いと感じないのです。指揮者マリンのスピード感に感心しました。

ルチアが広間に現れて狂乱の場を披露しますが、声がさほど狂っているようには感じません。それでもただならぬ声だとは思います。スチューダーの声はあらゆる音域が自由自在なので、カラスやサザーランドの場合のように、ああ良かった、ほっとした、という場面が感じられません。狂乱の場はそのままカヴァレッタの場面に続くのですが、ここの音の取り方が変わっています。ベルカント・オペラなので、カヴァレッタを自由にうたうのは作曲家公認ですが、一カ所だけ、疑問があります。それは狂乱の場の幕切れで、これで終了する、という瞬間、重唱が力一杯歌って終わるのですが、そのクライマックスのところ(最高音)で、ルチアの声がかき消されています。弱々しいのではなく、かき消されているのです。スチューダーの声量が足りないのかも知れませんが、このようなスタジオ録音では、スチューダーの声をピックアップして、もう少し目立つようなお化粧があっても可ではないか、と思うのです。実際他の場面でエコーが掛っているのは見つけましたし。墓地の場面では最初に余り聴かない旋律がありますが、あとは比較的伝統的な省略をしています。エドガルドが自殺を計る付近の処理は全く伝統そのもの。これを長々と延ばした人も居ますが。ここではそういうことをやっていません。比較的、あっさりと聴こえます。それにしてもこの第2幕というのは難しいのですよ。プリマドンナは既に消えていますし、そこを受け持つテノールには飛びきりの魅力がなければ、オペラの存在感が消えてしまうからです。その点、ここのドミンゴは立派でした。私はスチューダーを「ルチア」で観たことはなく、ロンドンでR.シュトラウス「アラベラ」の主役で観たことがあります。結構立派な声の持ち主でした。

(10)G.プレートル指揮、A,モッフォ(ルチア)、C.ベルゴンツイ(エドガルド)、M.セレーニ(エンリーコ)、P.デュヴァル(アルトウーロ)、E.フラジェッロ(ライモンド)、C.ヴォッツア(アリサ)、GD86504(2)
ジョルジュ・プレートルの指揮は全体として、キビキビしていると思います。ただそれと組み合わせるのがアンナ・モッフォとカルロ・ベルゴンツイだという点にやや戸惑いを覚えます。決してマズくはないのですが、何か情熱に乏しく、例えば明かりをLEDで供給する場合みたいと言えば分かるでしょうか。モッフォはミテクレの良さに寄りかかるところがあるし、ベルゴンツイはあまりに整然と歌いすぎるような所があります。モッフォは恐らく自分自身不安で仕方なかったのでは無いでしょうか。サザーランドが華やかな爆発的な成功をしたあと、カラスが引退同然になった1965年の録音ですが、彼女にとって1965年というのはもっとも華やかな時代だったわけです。そのあとがどうなるか。少しでも長くそれを保ちたいと思いつつ、当面の課題に取り組まなければならない状態。当時メットの支配人が4人のプリマドンナを招いたことがありますが、テバルディ、サザーランド、プライス、モッフォが同じテーブルに招かれました。そして最初に到着したのがモッフォだと!それでは心理的に負けですよ。

モッフォは始め尤もらしく、丁寧に歌っていますが、欠点を上げると余り音量がないようです。だから声を張り上げた時に濁るのだと思います。やはりモッフォに最適だったのは本人の好みと無関係に、ムゼッタ(「ラ・ボエーム」)やスザンナ(「フィガロの結婚」)では無かったでしょうか。その限りで愛らしく、美しいのですが、あまり頑張りすぎるとイヤミに聴こえます。アチコチの高音を投げていますが、中には高音が出るぞ、ということを明らかにするために音を張上げたりするのです。そういう所はクドい。そして途中で私は気がついたのですが、彼女がソロの場面では最高音域になるとさりげなくエコーが掛っているようです。あとは追加した音符が多過ぎるような気がします。これは企画スタッフに文句を言いたいのですが、あの追加した音符(原譜に有る無しに関わらず)はそれほど価値があるでしょうか。恐らくはRCA社の戦略だったのでしょうが、歴史に残るかどうかは、今ここでやっているような聴き比べをして分かるのではないか、と思っています。

ここで気づいたのはエドガルドを歌うベルゴンツイに付いてコメントをする必要性です。ベルゴンツイはデッカ社の録音が、デル・モナコから離れていくに従って増大した歌手ですが、ベルゴンツイは常に冷静であり、分析的であり、その分だけ醒めて聴いてしまいがちです。そのテクニックは優れたものですが、ただ、チョッと立ち止まってみましょう。ベルゴンツイは本心でルチアを愛したでしょうか。たとえ火の中、水の中という勢いを感じる事がない歌手です。私にはテクニックを習うお手本にしたいと思いますが、決して恋の相手にしたいとは思わない歌手。音符は聴こえて来ますが、情念は迫って来ないのです。そして狂乱の場におけるモッフォの喉は高音が目立ちますが(居る事が証明できるという意味)、その声は重唱に消されてしましがちです。おまけに最高音の最後で息切れする直前には声が引きつって全体から浮いていますよ(特に2回目が目立ちます)。モッフォは、どうしてこうまで無理するのでしょうか。そして狂乱の場、それに続く墓場で、時として感じるのですが、普通は指揮者達がカットしてしまう旋律を、モッフォや男性陣が歌っていますが、これは疑問符つきです。それだけ値打ちがある曲なんでしょうか。私のミミには時間稼ぎみたいに聴こえました。せっかくのプレートル指揮のキビキビとした棒が、残念ながらここでは死んでしまいます。そして再度モッフォについて。彼女はこのオペラの結末を知っていたかのように、最初から物思いに沈んで聴こえるのです。コントラスト、これを付けないといけません。そして長い第1幕のあと、ルチアが死ぬところまでの間に10年も経ったかのような、大昔の物語みたいに思えるのです。そしてその分だけ、ルチアの悲劇では無くなって行くようで、これでは満足できません。

(11)F.クレーヴァ指揮、M.カラス(ルチア)、Gカンポーラ(エドガルド)、エンツォ・ソルデッロ (エンリーコ)、P.フランク(アルトウーロ)、N.モスコーナ(ライモンド)、T.ヴォティプカ(アリサ)、1956年メトロポリタン歌劇場実況、MYTO 3・CD 00137
これは有名な公演ですが、決して音楽的に有名なのではなく、スキャンダルと結びついた公演だったという意味です。カラスは正直言って(従って私の耳にも)調子が悪く、声が伸びず、特に高音がサッと下がってしまうという調子です。前の年にスカラ座でヴィスコンティ演出のヴェルディ「椿姫」で成功していますし、同じく前の年にはベルリンでカラヤン指揮の「ランメルムーアのルチア」を成功させています。これだけ条件が揃っているのに、カラスと言えど不調はあったのですね。アレレと困った顔をしながら聴きました。ソンデッロのバリトンは美しく響くし、かなり良い公演になるのでは、と期待して聴き出したのですが、ソンデッロは馬脚を表しますし、カラスは高音が無理です。結局は指揮者のクレーヴァが良く無いのではないか、と思いました。実際、結婚式前後にある諸節ではどうしてこんなテンポが出て来るのだろう、と不思議に思いました。トラブルの内容はその付近になる高音(たった一音)をソンデッロが響かせ、対するカラスはそれを出し切らなかったのです。これはスキャンダルになって当然です。このCDの年月日を調べますと1956年12月8日とありますので、間違いありません。私の耳を信じる限り悪いのはカラスの喉です。本人も投げてしまったような公演でした。こういう種類の公演の善し悪しを描写する際には、贔屓の歌手かどうか等も影響するものですが、ここでは私は自分の耳を信じました。翌日妻と一緒にその場面を再度再生してみましたが、良くわかりません。ただ、ソプラノが中途半端に下降していることは確認されました。クレーヴァの指揮はとんでもない跳躍があったりしますが、どうしてこの人がメットに迎えられたのか分かりません。

狂乱の場はカラスは声を抑え、不調なりにまとまりの良い歌を歌いました。そしてこの場面は早めに終了に向かいます。第2幕はレーヴンスウッド墓地の短縮版でさっと進みますが、そういう簡単版ではエドガルド役のカンポーラの声が楽天的で馬鹿みたい(!)に響きます。私はかねてよりカンポーラの声に興味があって注意深く聴きましたが、それはヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスと競演したプッチーニ「蝶々夫人」の舞台写真が念頭にあったためです。ですが、このエドガルドは虫眼鏡での鑑賞には耐えないものでした。そして全体が終了するわけですが、そこで気になるのはやはりソンデッロは有罪かどうかですね。私はここでは敢てカラス有罪説を取ります。実際、あそこで全体を保つにはソンデッロが頑張るしか無いじゃないだろうか、というのが理由です。それより、カラスが全体として不調だったことが気になりました。但しそれでも狂乱の場におけるカラスは丁寧で、細かい所まで神経が行き届いていて、良い結果を与えています。オペラって難しいですね。なおココで聴いたのはMYTO盤のCDでしたが、その空白部分に、カラヤンのベルリン公演から「ルチア」抜粋が入っていました。その会社は前出のPAL盤であってMYTO盤とは違います。MYTO盤では声が太く感じられました。こういうデリケートな音の変化があるから、CDも会社を選ばないとならないのです。こういう比較が容易にできるような技術の進歩に感謝します。なお、ここでライモンドを演じるニコラ・モスコーナはカラスがまだデビューする以前から、カラスが世話になった人物です。ギリシャ系。

(12)J.プリッチャード指揮、J.サザーランド(ルチア)、R.チオーニ(エドガルド)、R.メリル(エンリーコ)、R.マクドナルド(アルトウーロ)、C.シェピ(ライモンド)、AR.サトレ(アリサ)、コヴェントガーデン管、ポリドール、F90L-5-217/9、英デッカ411-622-2
これは1961年のスタジオ録音盤です。音楽が鳴り出した時の私の失望をお思い下さい。実際がっかりさせるような、寄りかかった歌唱でした。おそらくこの録音だけを聴いた人が下したルチアが、そのままサザーランド全体の評判になったのでは無いでしょうか。覚えているのですが、「僕は彼女のレコードを(退屈の余り)裏返しにできない」と判断したHR氏を思い出します。それに対してT氏も「音程も良く無いしね」。一部の評論家は「でも僕はサザーランドも素晴らしいと思います」と言いましたが、大勢は別でした。これらはルチアを色々聴いた結果、それぞれ根拠があるかな、と思った次第。当時、海賊盤は出回っていませんでしたし、あのデビューになった1959年盤を抜きにしてサザーランドを論じることは大変危険ですし、問題を見誤ります。それでは誰が悪かったのでしょうか。誤解の張本人がどこかにいるはずです。意外にも御亭主のリチャード・ボニング?セラフィン盤(1959年)があるので、それと比較できます。ちなみにここでの指揮者ジョン・プリッチャードは英国風の中庸を実行しています。もう少し冒険が欲しい。そしてチェーザレ・シェピのバスにはいつも感心します。ただ、音を繋げる時に、少し小うるさく感じられました。レナート・チオーニの歌うエドガルドは、聴いているうちに慣れてしまい、まあこういうものも良いか、という結論に達しました。個人的にはジュゼッペ・ディ・ステーファノの方が好きです。サザーランドは技術的に難点はなく、どんな高音を必要とする場面でも、揺るぎもしない声を出しています。問題はその表情です。

この盤では結婚式の場面に追加されたプロットがあって、全体が長くなっています(と言うより原譜に近い)。追加された旋律には例えばエンリーコやライモンドの歌が入ります。また通常、狂乱の場でその部分が終了するのですが、ここでは狂乱の場の後にも短い旋律が付け加わります。もちろん最後の墓場のシーンでは早々にそれが目立ちます。その分だけ肝心な音楽の骨格が薄れて行くのですが、それで良いだろうか、と疑いました。最後にエドガルドが自らを刺す場面はあっさりしていて、いつ刺していつ息絶えるのか分かりません。途中に雷の音が入ったりしていて、コレだけが注意を引きますが、本筋に無関係ですね。サザーランドの為に申し上げますが、この録音は正直言って失敗です。声をマスクして歌うような歌い方や、声を潜めるようなトリルもやりすぎです。私が正直にサザーランドって素晴らしい!と言えるのはこの盤でなく、1959年の海賊盤だけでした。セラフィンが指揮したヴァージョンです。悲しみながらもそういう感想を申し上げます。

(13)T.セラフィン指揮、M.カラス(ルチア)、E.フェルナンディ(エドガルド)、R.パネライ(エンリーコ)、D.フォルミキニ(アルトウーロ)、G.モデスティ(ライモンド)、E.ガラッシ(アリサ)、RAI管、1957年ローマ実況、マスターピース、CDLSM-H-34022
これは悪名高いローマ歌劇場の実況です。なぜ悪名高いのか、と言えばチョッと聴いてみると分かります。しかしトゥリオ・セラフィン指揮でマリア・カラスですよ。これがいくら素晴らしい音楽を奏でても、それ以外のキャストが弱く、よろよろ歌っている感じがするので、危なっかしいなあ、と評するようになったのです。カラスに焦点を絞りますと、立派に歌っています。ただ狂乱の場を締めくくる場面で、最高音にキズが包まれていたことと、最後の音をキチンと歌うベキところでカラスの音が下がってしまったのが聴き取れたからです。その直前まで延々と高音をつつがなく延ばしていましたが、それが最後まで続かなかったのですね。細かいところまで神経が行き届いた演唱でしたが、これと1955年のカラヤン盤のカラスと比較してみると、誰でもカラヤン盤の方に一票投じるのではないでしょうか。でもその最後を無視すれば、これは十分に世界を制覇した歌唱と言えます。

あとで出て来る1952年のトリノのコンサートの時の歌唱と、1958年にアテネに凱旋した時の実況盤と並べますと、歌手の寿命が如何に短いかということが分かります。本当に歌手のみなさん、うっかり遊んでなぞ居られないのですよ。カラスは1955年をピークとし、それから早くも翌1956年には下降線をたどっているのです。その絶頂期の録音がこのようにチャンと残されてるのは感謝としか言いようがありません。しかもその前後をはさむのが、1953年と1959年の、EMIによるスタジオ録音なのです。それだけ聴いてもカラスを判断できません。しかもこれは他の歌手についても言えます。例えばここで取り上げたジョーン・サザーランドはこのようなジャンルのデビューが1959年で、その実況盤をここで聴いた訳ですが、その僅か3年後のデッカのスタジオ録音では、あの凄さを再現していません。サザーランドもカラス同様に、絶頂期は1〜2年しかありません。その点両人ともそのピークの録音が残ったのは幸いなるかな。

この1952年盤のルチアを聴くと、最後に登場する墓場でのエドガルド役は、気の毒なほど正直な聴衆の反応をあびています。つまり無視されてしまったのですよ。拍手も無く最後の合唱付きのシーンになりますが、最後に残る印象は、言ってみればヤレヤレでした。終幕には拍手も聞こえ、怒号も聴こえましたが、あれを区別することは出来ません。カラスはローマと相性が悪く、ああこれからローマにいかなきゃならないわ、と言ったそうです。私が今から30年近く前にヨーロッパの施設見学に出かけたとき、フランスのルーアンで隊長格の人と一緒に昼食を取りながら色々話した中に、隊長殿が在任中に盛んにオペラハウスに通ったけれど、ローマのは装置も古いし、演出も昔ながら、そして衣装も古くさく散々だった、と言っていたのを思い出します。

(14)R.ボニング指揮、J.サザーランド(ルチア)、L.パヴァロッティ(エドガルド)、S.ミルンズ(エンリーコ)、R.デヴィーズ(アルトウーロ)、N.ギャウロフ(ライモンド)、トウーランジョー(アリサ)、ロンドン、F90L-50217-410-193-2
これは録音の技術的水準が極めて高いため、演奏もまた「微に入り細に入り」検討し易くなります。全体にエコーが掛っている場が多いのですが、それが外れることもあります。例えばレーヴンスウッド城の中でエンリーコにペシャンコにされたルチアが、家庭教師のライモンドとやり取りする所は巧みにエコーを掛けていますが、それが突然エコーが取れて、パッと音が広がり、テンポが一呼吸遅くなります。ここは感心しました。他の所ではこれほど鮮やかではありません。こういう鬼面人を驚かすような部分に比して同様に鬼面なのですが後の場面で、オーケストラも合唱も突然100m競走みたいに早く走り出す場面の演出は、注意は惹きますが、それほど感心する物ではありませんでした。サザーランドは始め大人しく、例のサザーランド流だったので少しがっかりしましたが、もっと長いスパンで捉えると、このサザーランドのルチアも立派なものではないか、と思うに至りました。どこが、と指定できないのですが、まず毛嫌いするよりも聴いてみて下さい。

あと感心したのはニコライ・ギャーロフのライモンド役とルチアーノ・パヴァロッティのエドガルド役です。パヴァロッティは既に世界的なスターでしたが、まだ後年の「帝王」と言うのとは少し違います。でも、ムキになってこれでもかこれでもかと年配の諸役の人々に向かって行くところは秀逸でした。そして意外なことに、これではリチャード・ボニングの指揮が巧いと思います。ただ、完璧に全てではなく、一部表現がダラダラしたところもあります。つまり描く絵が、2次元に留まり、その範囲内なのです。それが上記のようにパッと奥に引っ込む(つまり3次元的)ところで感心したわけです。そういうトリックは狂乱の場の後でも同様に現れます。そのあとはパヴァロッティの独壇場ともいうべきところですが、実はこの部分で少しパヴァロッティがクドく感じられたのも事実です。やはり適切なカットをしたり、歴代の指揮者達が自分の技の限りを尽くして手を加えたものは重要だ、と理解しました。サザーランドはやや退屈されるかも知れません。これは音のレベルをホンの少しだけ上げた方が真のところが分かります。ボリュウムを絞って聴くと長いと感じるのです。

また抜粋等は下記の通り。
(15)「ランメルムーアのルチア」より、ヘスス・ロペス・.コボス指揮、ニューフィルハーモニア管、M.カバリエ(ルチア)
-1あの声の優しい響き
-2香りはくゆり
-3エンリーコ様がおいでだ
-4苦い涙を
ここでカバリエが登場します。性質は優しいし技術もありますが、あまり冒険はしていません。しかも冒険というより声をかばうように、6〜7カ所の高音をわざと外しています(というより、避けています)。本来のルチア歌手ではないようです。オーケストラは景気が良いのですが、全体はルチアの雰囲気を表していません。

(16)「ランメルムーアのルチア」より、リチャード・ボニング指揮、ロンドン響、エディタ・グルベローヴァ
-1ああお気の毒に
-2恐ろしい亡霊が
-3エンリーコ様が来られた
-4私の死骸の上に
最近の世界最高と言われるグルベローヴァの歌です。全体としてこれを吟味しますと巧みに歌っています。余り耳をそばだてないように聴けば、です。途中で4カ所あるチャルダッシュ風と私が勝手に呼んでいるところ(Ah〜Siを繰り返すところ)ですが、発声が汚い場面が気になる上、一度気になると全体が気になります。

(17)「ランメルムーアのルチア」より、ネロ・サンティ指揮、パリ音楽院管、ジョーン・サザーランド
-1当たりは沈黙に閉ざされ
-2あの声の優しい響き〜香炉はくゆり
サザーランドがサンティの指揮で歌うとこうなる、という例です。それも1960年というサザーランドのピークの時です。実はサザーランドとサンティの間では、解釈を巡って不和があるのは有名ですが、どういう解釈上の違いがあったのか丹念に聴きましたが、私の耳には分かりませんでした。ただし問題が生じたのは「椿姫」の解釈だったし、「ルチア」では難しいのかも知れません。1960年以降、両者は共演していません。そのサザーランドですが、これほど明瞭なディクションだったことは他に例がありません。音程も良いし技術的には文句ない出来映えです。

(18)1957年「ランメルムーアのルチア」より
カラスが1957年にアテネに帰って行った凱旋公演の実況です。アントニオ・ヴォットーの指揮です。ここでは独り舞台ですが、カラスが泉のそばで歌う所を聴くことが出来ます。ここは相手方は出てこないため、カラス担当の歌しかありません。表現は他の盤と余り差がありません。海賊盤ですが、こういうのを聴くのは楽しみです。

(19)1952年「ランメルムーアのルチア」より
カラスの1952年トリノのRAI会場における公演で、オリヴィエロ・デ・ファブリティスの指揮です。ここではルチアのハイライトと言える、狂乱の場が全部入っています。声がまだ太く(体も太かったはず)、その太ったカラスの脂ぎった低音を楽しめます。声が籠りがちなので、好きずき。表現はそのあとの録音と比すと少し差があります。
千葉のF高


以上で終わり。次回はフランスオペラでドビュッシー「ペレアスとメリザンド」を予定。















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