「ペレアスとメリザンド」(ドビュッシー)       2012.春

クロード・ドビュッシーの時代(「ペレアスとメリザンド」の初演1902)は、大きな歴史の流れと対比すると色々と考えさせられます。あらゆる事で改革が行われた時代。誰しも周囲に目を巡らす瞬間があるでしょう。それは周囲の遅れた絵画や音楽に侮蔑の念を抱いてそうするのかも知れません。そういう感情を抱くことであなたは「新しい時代」の一員になっています!絵画が最初にやって来て、舞踏が最後に来た歴史の流れ。しかも舞踏に関する重要人物の生年月日は、広く広げた場合、文学や絵画の裾に重なっています。音楽の世界で重要なドビュッシーとかラヴェルは絵画の世界で重要なセザンヌやピカソの時代に重なっています。何という広大で、重要な時代でしょうか。世紀末の大変革を感じます。さまざまな手法が変わりました。絵画は殆ど完全なる自由に向かって羽ばたきましたし、音楽も様々な規則から解き放たれ、そして文学が一番遅れましたが(異議があると思いますが)、それでも自由へ向かって歩み始めました。それは好むと好まないに関わらず、巨大な影響をもたらしています。しかも重要なことは、変化が特にフランスで集中的に起きた事ではないでしょうか。

私は白状しますとフランスを長い間敬遠していました。決して嫌いではありませんが。敬遠という言葉しか無いのです。問題とする期間は、絵画と舞踏を合わせて60年間くらいの広がりですが、ある意味でこれは近代から現代へ変わる大きな世紀末でした。そのようにして目指した自由ですが、それも時間が経つと、はや古くささを感じることも出て来ます。全くの恩知らずですが、そういう身勝手さが人類を進歩させています。ドイツ流のガリガリ・カクカクした方法でも可能でしょうし、また英国流のプラグマティズムでも可能でしょうが、なぜかフランスで突出しています。何かがあります。ここではその苦手なフランスに敢て焦点を当ててみましょう。

五味康祐の著作「西方の音」はいつも私に重要な課題を与えて呉れますが、その始めの方に「ペレアスとメリザンド」の節があります。そこに描かれた「ペレアスとメリザンド」に関する記述は捉え方によって正反対の内容に取れます。ご本人はペレアスは「いかれポンチ」になってしまいかねない、と書いていますが、それはレトリックであって、本人の心は侮蔑的に書いたのと正反対ではないでしょうか(幾分は氏の照れ隠し)。時々五味氏はそういう態度を取られることを承知しています。それとも五味氏は骨の中までドイツ・ゲルマンでしょうか。ベートーベン意外の全ての音楽家は自分より劣る、と断言したワーグナーを崇めて?

「ペレアスとメリザンド」の話を創作したのは「青い鳥」で有名なベルギーの作家モーリス・メーテルリンクです。ベルギー生まれのこの作家を、最近はメーテルランクと記す例もあります。ここではメーテルリンクと書かせて頂きます。彼は若い時分にワーグナー信徒としてバイロイト詣でもしています。私もチョッとしたエピソードを持っていて、ある大学スタッフは「でも、どんなに若い時にワーグナーに入れ込んでも、最後は捨てちゃうんだろう?(チャイコフスキーも、サンサーンスも、はたまたニーチェも)」と言われました。それがドビュッシーのことだとウスウス察していました。またドビュッシーとワーグナーの関連についてモロモロ流布している話も大雑把に分かっていました。しかし色々なことを総合すると、ドビュッシーはワーグナーと対決するものではなく、ワーグナーの延長線上にあるらしい、ということを、多くの諸賢の文章でお目にかかりました。「ペレアスとメリザンド」とは、「あれ全くワーグナーそのものですよ」とは誰の言だったか忘れました。またピアノ調律師のW氏は、日本人はドビュッシーが好きですからねえ、と音楽大学の雰囲気を総括しました。すると多くの日本人、とくにフランス留学生はワーグナーに親しんでいるのでしょうか?ドビュッシーを得意とした古澤淑子などもそうでしょうか。古澤氏は50年くらい前の文芸誌に、三宅春恵と共に日本を代表する歌手として書かれていました。在仏の長い古澤氏はワーグナーをどう思っていたのか、確かめたいところ。

そもそも私にとっては、イタリア・オペラとはヴェルディを中心とする前期イタリア・オペラとプッチーニを中心とする後期イタリア・オペラ、またベルリーニを中心とするベルカント・オペラの3種類あります。他にワーグナーのジャンル、またリヒャルト・シュトラウスのジャンル、モーツアルトのジャンルも。それに若干のフランス・オペラ、それらが私にとってオペラ全体になります。そこにスラブ・オペラ等は含まれません(聴いたことはあっても身に付いていないのです。それでもムソルグスキーの「金鶏」等は面白いと思い、実演を観たあと、ビデオ・テープで何回も観ています)。もう少し色々な曲を聴かないとならないだろう、と反省するところ。
千葉のF高


(216)モノローグ「ペレアスとメリザンド」の録音
「ペレアスとメリザンド」の録音は何度かありました。T氏おすすめの品はヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスがメリザンド役でアンドレ・クリュイタンスの指揮したもの。しかし私が持っているCDはシュザンヌ・ダンコのメリザンド役とエルネスト・アンセルメ指揮の旧盤です。アンセルメは1952年のモノラル録音のものと、1964年のステレオ録音のと2個ありますが、私のは旧盤のみ。あくまでまとまりの良い音を追求したためです。またここで取り上げたものに加え、実に壮観とも言うべき多数の録音があることが分かりました。中にはエリザベート・シュワルツコップとディートリッヒ・フィッシャー・ディスカーウのものもありますが、余り騒がれていません(知的過ぎるかも)。

繰り返しますが、今持っているのはアンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団、シュザンヌ・ダンコ(Sp、メリザンド)、ピエール・モレ(T、ペレアス)、ハインツ・レーフス(B、ゴロー)。録音1952年。コレだけです。似たキャストですが、ステレオ盤の方ではダンコにもジョージ・ロンドン(Br)にもクセがあるようです。要するに歌うというより
語る、それもつぶやく、ひっそりと雰囲気を醸し出す、というのが「ペレアスとメリザンド」の特徴でしょう。大向こうを唸らせるようなアリア、それも管弦楽付きのアリア、大合唱等はありません。その代わり、会話の往復を楽しみましょうか。ほのかな雰囲気、それに尽きるようです。フランス語を母国語にしていないと演じ難いかも。
千葉のF高


(217)モノローグ「ペレアスとメリザンド」のストーリー
簡単にまとめると、『ある時代のある王国での出来事。どんな前歴があるか知られないままゴローと結婚したメリザンドに王の男孫ペレアスは惹かれ、それに気づいたペレアスと異母兄弟のゴローは疑念を増して行き、ついには妻の寝間を監視させ、それに自分の幼い王子イニョルドに報告させるという狂態をさらす。そのメリザンドは長い髪を持っていたが、それを引きずり回したゴローにうつろな眼を向け、ついには死ぬ』となります。これはすでに気づかれたように、「トリスタンとイゾルデ」を彷彿させますね。違うのはトリスタンの無調性(に近い)がさらに徹底していること、個々の音階のもつ響きよりも全体としての響き合いを尊重していること、等が挙げられます。実際この第3幕を聴いているとすっかりトリスタンを取り巻く雰囲気になっていることを発見します。全体は5幕仕立てですが、各幕の必然性を理解するのはかなり面倒です(これは私の個人的な問題)。少なくとも「ペレアスとメリザンド」のような象徴劇を聴こうと言う場合は、それなりの覚悟と心の準備をして取りかかる必要があります。各幕ごとの詳細を下に記します。なお、赤字で書いてあるのが私の印象です。
この「ペレアスとメリザンド」を批評するにあたり、この(217)項では私自身の言葉で書いたものを、赤字で示しました。黒字で書いてある部分は文献等から得ていたものによります。結局は両方必要だと思います。「ペレアスとメリザンド」を一方だけで書こうとすると、どうしても無理が出ます。粗筋は十分に知っていて、その上に繰り広げられる心理劇、というところでしょうか。

第1幕
第1場:(ゴローが森の中でメリザンドを発見)森の中で、先妻を無くしていたゴローは狩りの途中に名も知れない女性(メリザンド)を見つけますが、メリザンドは水底に王冠を落としたようです。
音楽は泡立つような響きではじまり、ゴローの声は深みを持ってひびきます。メリザンドはそのゴローに発見されるのですが、メリザンドの素性を明らかにはしません。王侯貴族の仲間だろうとは思わせますが、声は案外と平ぺったいものでした。大小のアクセントもつかず、これで全体をカバーするのか、という感じ。それが次のシーンに移行する際には2人が遠方から近づくという、まるで映画的な手法です。

第2場:(ペレアスからゴローへの手紙)その半年後、ゴローはメリザンドを見つけ、結婚したいと言うことを弟のペレアスに手紙で知らせます。時の王たるアルケルは眼が不自由なので、王妃ジュヌビエーブが読んで聞かせます。王は許してやろうと決心します。
そしてジュヌビエーブが登場しますが、彼女の声は響きに陰影がはっきりついているので、いっそメリザンドと交替したら、と良からぬ事を考えました。実際にはメリザンドはソプラノですが、ジュヌビエーブはアルトなので無理かな。ここでは早くも遠近感は失われています。

第3場:(ジュヌビエーブがメリザンドを城内部案内)次の場で、メリザンドは王妃ジュヌビエーブに伴われて城を巡り、城が森に囲まれていることを知ります。幼児イニョルドの面倒を見るため、メリザンドをペレアスに預けますが、ペレアスは自分は明日そこを発つというので、メリザンドは不思議がります。
ペレアスは早くもこの段階でメリザンドに惹かれているようです。逢った途端なのに、ペレアスは明日旅に発つというので、メリザンドは不思議に思う次第。こういうことは男の方が敏感なのでしょうか。ここでは、メリザンドとジュヌビエーブの声の対比は余り上手く働いていません。

第2幕
第1場:(泉の水でメリザンドは髪を濡らしてしまう)ペレアスとメリザンドは泉のほとりにいますが、それが盲目の泉と呼ばれていた事、それがアルケル王の失明とともに忘れられていることを、メリザンドに告げます。メリザンドが水底を見ようと、かがむと長い髪が垂れて濡れてしまいます。そしてゴローと会った時の話をペレアスにしますが、ゴローは抱きしめては来なかったことをつげ、泉の上でゴローから貰った指環を弄び、指環は水中に落ちてしまいます。そこで正午の鐘が鳴るので、両人とも城に戻ろうとします。
短い章ですが、ここでペレアスとメリザンドの両人は初めて水遊びをします。メリザンドは遊んでいるうちに、ゴローから貰った指環を手から滑り落としてしまいます。メリザンドはそれにも関わらず、鷹揚に構えています。このシーンでメリザンドは長い髪を持っている事が分かります。その髪を水の中に浸してしまうのです。これはドイツのラプンツエルの童話を思わせますね。しかしここではドビュッシーは思わせぶりにしか音符を扱いません。ドビュッシーは水の扱いがうまい。

第2場:(ゴローがベッドで休んでいる)病気のゴローをメリザンドは介護しますが、突然メリザンドは泣き出します。ゴローはメリザンドが寂しいのだろうと思ってメリザンドの手を取って慰めますが、そこでゴローはメリザンドの指に指環が無いのを見つけます。メリザンドは幼児イニョルドのために貝を拾おうとして海の洞窟の水中に落としてしまったと、ウソをつきます。あの指環は全財産より価値あるものだから、と言ってペレアスと供に探す様に命じます。
ゴローは病気になっていますが、何の病気だかは全く不明です。そもそもこの「ペレアスとメリザンド」では登場人物は病気になってしまうことが多いと言う印象です。メリザンドはゴローに指環をはめていないのを見とがめられ、どうしたのか、と厳しく問い詰めます。これに対し、メリザンドはウソをついて逃れようとしますが、ゴローは追求を緩めません。メリザンドのウソはどういう意図でしょうか。それくらい純粋無垢な乙女という意味でしょうか。余り好意の持てない箇所です。

第3場:(メリサンドはペレアスと指環を探しに行く)暗やみの中を両人は洞窟にやってきて、そこでペレアスはメリザンドに色々と入れ知恵をしますが、月が出て洞窟の中に3人の乞食が寝ているのを発見します。驚くメリザンドに、今は飢饉なので危険を避けるため、起こさない様にしようと、急ぎ城に戻ります。
無くした指環を探しに森にもどりますが、それにペレアスが付き添っています。そして洞窟の中に乞食の一群がいるのに遭遇しますが、これもどう全体のストーリーと関係するのか不明です。また指環はどうなってしまったのでしょうか。

第3幕
第1場:(ペレアスとメリザンドは歓喜に包まれる)星明かりの塔の中でメリザンドが長い髪を漉きながら歌っている時、ペレアスが美しい髪を見せて、と塔の下からせがみます。ペレアスは自分は明日遠くに旅立つから最後に手にキスさせて、とせがみますが、行ってしまうのなら手は貸さないというので、ペレアスはそれなら明日出掛けるのは止めると言います。ペレアスとメリザンドは金髪を弄び、髪の毛にキスして戯れます。柳の木の枝に髪が絡み付き、人が来た気配を察っしたメリザンドは離してと叫びますが解けません。その場に現れたゴローはこの真夜中に何という遊びをしているか、と叱ります。
ペレアスは明日遠くに旅立つと告げるのですが、メリザンドはそれはイヤと言い、ペレアスもせっかくの決心を止める事にします。そしてメリザンドは金髪を弄ぶのですが、またもやペレアスの方の神経がイカレテいると思います。このシーンはペレアスの心の動きまでは分かりませんが、実はゴローが暗やみの中で見ていました。ただしそこではゴローは単に、一体暗やみの中で何をしているのか、とだけ問い質します。

第2場:(水が腐った匂いが立ち込め、そこから逃げる)ゴローはペレアスを連れて城の地下道に行きますが、ペレアスはその淀んだ水の臭気から逃げ出します。
上記の場面から、ゴローはペレアスだけ連れ出しますが、途中に腐ったような水の地下道を通り、その臭気にペレアスは嫌気をもよおして逃げ出します。なぜ臭気なぞ持ち出したのでしょうか。

第3場:(ゴローはペレアスとメリザンドがそこで何をしているのか問う)ペレアスはメリザンドと王妃ジュヌビエーブが塔の窓にいるのを見つけ、ゴローに知らせますが、昨夜のことは全部見てしまったのだ、とペレアスに告げ城を去るように諭します。
ゴローの機嫌はまだ回復しません。ペレアスに向かい、自分は全てを見てしまったのだ、と告げます。そしてペレアスにこの城から去る様にと告げます。ここで分かるのは、ゴローは既に良い年をしている白髪の混じった老人であり、ペレアスはまだ初々しい若人だということです。

第4場:(ゴローとイニョルドの対話)城の前でイニョルドを抱いてゴローはペレアスとメリザンドの両人のことを尋ねますと、一度だけ抱き合っていたと告げます。そして部屋に灯りがついた時、ペレアスは光だけ見つめていたとイニョルドは答えます。
城の前でゴローは自分の子供のイニョルドを抱き、自分が居ない時メリザンドはペレアスのところに来るのか、と問います。答えはYES。ついにゴローの神経は耐えられない程感情がおかしくなります。そして嫉妬にめざめ、狂い始めます。ペレアスの方は軽く受け流していますから、この段階ではペレアスの方が大人しく、冷静です。

第4幕
(第1場:ペレアスは旅に出ると話す)ペレアスはメリザンドと逢い、父親の病気が快方に向かったこと、ゴローから「旅に出る様に」と言われたとメリザンドに話します。
ペレアスはゴローから旅に出る事を強要(諭すというより強要でしょう)されたとメリザンドに話します。

第2場:(ゴローの怒りと、アルケル王とメリザンドの会話)アルケル王は、この陰気な城にメリザンドのように若い女性が暮らすことを不憫に思います。ゴローが入って来ると、額に傷があるので手当しようとしますが、ゴローはそれを拒み、代わりにメリザンドに剣をもってくるように命じます。そして、メリザンドが秘密を探ろうとしていると怒り、メリザンドの髪を掴んで引きずり回します。ゴローのその態度にアルケル王は止めようとしますが、ゴローは自らが老けたと言って出て行く。そしてメリザンドはもう彼は愛していないのです、とアルケル王に答えます。
アルケル王はメリザンドのような若い女性がここで暮らすのは辛いだろうとメリザンドに話します。そこにゴローがやってきて、メリザンドに剣をもってこいと命じ、メリザンドが秘密を探ろうとしていると怒ります。そして自からが老けてしまった、とのみ言い捨てて部屋から出て行きます。老人が嫉妬に狂うと厄介。

第3場:(イニョルドは一人でつぶやく)幼児イニョルドは庭にいますが、羊飼いの群れをみて、あのヒトにあの事を教えてあげたい、と呟きます。
羊飼いを眺めて、イニョルドはあのヒトに教えたいと呟きますが、なぜこのシーンを挿入したのか不明です。

第4場:(ペレアスはメリザンドを待つ。ペレアスとメリザンドの両人は初めて愛していると告げ合う)その夜、ペレアスの前にメリザンドが現れます。ペレアスの弁解と続く抱擁のあと、ペレアスとメリザンドは有頂天になり、天から星が降って来ると言って舞い上がります。これがどう言う結末になっても構わない心境です。ゴローが秘かにそれを見ていて、ペレアスを剣で刺し殺し、メリザンドを追います。
★その晩、ゴローの顔色と挙動などから薄々自分達が危なくなった事をペレアスはさとり、その危険から逃げようと考えています。

★そこにやって来たメリザンドを呼び寄せ、自分は遠くに旅に出ようと思うと告げます。メリザンドは驚いてそれはいや、と言います。

★初めてペレアスはメリザンドに愛している、と告げ、メリザンドもか細い声で愛している、と返します。外で門に鍵がかかる音がしますが、そのまま自分の所にいて欲しいと互いに告げます。

★2人は今まで隠してきたが、もう怖い物は無いとばかり有頂天になっています。空からは星が降って来ると叫ぶ。歓喜の瞬間に、秘かに見ていたゴローは表舞台に踊り出てペレアスを刺し殺し、そしてメリザンドはその場から逃亡します。

この場面が「トリスタンとイゾルデ」を思わせるのです。決してストーリーが同一というのではなく、ストーリーとは別にその背後に流れる音楽を御聞き下さい。それは一瞬耳をそばだてさせ、あっという間に過ぎてしまうのですがこれは「トリスタンとイゾルデ」第2幕の逢い引きの場面に出て来る箇所、トリスタン!と叫ぶイゾルデの音楽に他なりません。これに気がつかないヒトは居ないでしょう。ほんの一瞬の短い時間だけですが。


第5幕:(赤ん坊を抱こうとしてメリザンドは死す)ベッドに横たわるのはメリザンド。ゴローは後悔に苛まれますが、メリザンドは既に意識がハッキリしません。ゴローは許しを乞いますが、メリザンドはペレアスを愛していた、と白状。でも不義はしていないと言うので、ゴローは詰め寄ります。再び、メリザンドの容態は悪くなります。アルケル王は生まれたばかりの赤ん坊をメリザンドに抱かせようとしますが、力なくメリザンドは息を引き取ります。
☆事件のあと、メリザンドは臨終の床についています。医者はこれは傷のためではなく、メリザンドが非常に弱いからだ、とゴローを慰めます。

☆ゴローは呼び入れられ、メリザンドに謝ります。ゴローは自分はメリザンドを愛していた、と告げます。

☆ゴローはメリザンドに質問しますが、メリザンドは私は不倫等していません、と答えます。

☆メリザンドは「でも自分はペレアスを愛していた」と告げます。ゴローはまたもや詰めより、メリザンドは容態をさらに悪くします。実際ゴローはしつこいのです。

☆そこにアルケル王が生まれたばかりの赤子を連れて来て、メリザンドに抱かせようとしますが、それは叶わず。メリザンドは死にました。後に残ったのはアルケル王の嘆きの言葉とゴローの後悔の念のみ。


なお、この生まれた子供というのは、メリザンドとゴローの子供のことだと私は思います。その場合は第3幕の最初の会話は半年以上たってからの会話ということになります。そもそもペリザンドは王女(最初に王冠を持っていたから)だったのでしょうか。そしてペレアスと戯れたのは単に兄妹としてでしょうか。ゴローのセリフを追うと、必ずしもゴローだけを悪者に出来ない気がします。メリザンドの子もオペラの終曲にようやく現れるのですが、解釈に悩みます。また幼児イニョルドが第4幕第3場でいう、あの事、とは何でしょうか。
このようなプロットですが、何しろ音調がクルクルかわりますし、10秒前の旋律(あれば!)を再現してみろといわれたら、それは難しい、というのが私の答えです。メリザンドの声の一貫して均一なことは、「ペレアスとメリザンド」がイタリア・オペラと如何に違うかを示します。彼女の性格があやふやで、どこからともなく現れ、どこへともなく消えた女性ということしか分かりません。あちこちで渦巻くような音が聴こえますし、この難曲をスラスラと理解するのは神業に近い!私はまだ良く分ってはいません。ともかく、音楽の鑑賞と言うより作品の批評になってしまいました。このオペラの性格はそれを許してくれると考えます。なお、ペレアスは20代始め、ゴローは50代、メリザンドは17歳位というのが私の判定。オーディオ的には大音量の管弦楽の音が少しヒリ付きます。
千葉のF高


(218)モノローグ 「ペレアスとメリザンド」はシャーベットの味
それでは「ペレアスとメリザンド」というフランス・オペラは何の味わいに喩えられるでしょうか。味や香りという人間の感覚を如何にして記録/再生するか、という一見簡単なことに人間は未だ成功していません。文章で説明するしか無いのです。どんな料理のレシピ本だって、こうすれば良いのかな、という大きなヒントが得られるだけ。実際に味がどうなるのか、味に伴う香りはどうか、という肝心の点では無力です。視覚や聴覚はこれだけ進歩しているのに、です。この「ペレアスとメリザンド」というオペラはこの味覚や嗅覚の世界に似ています。私は長い間これを考えてきました。決して脂味ではないでしょうし、油脂が飛び散る雰囲気は最も遠い所だろうと思います。塩味?それも違うでしょう。粉っぽい和菓子(干菓子)の雰囲気とも違う。また歌舞伎の原色ギラギラとも違います。私はこれは氷菓の香りだと思うのです。シャーベットやかき氷の香りです。シャーベットとかき氷では温度差があって、かき氷の方がより冷たい。シャーベットの方は七色に変化する香りを発します。コレダと思いました。

そしてどのくらいの冷たさになれば、香り(音の味わい)の透明度は上がり、味(音楽の作り)は豊かになるのかを確かめて見たい。冷やし過ぎると、音楽の魅力は失われてしまいます。そう思えば「ペレアスとメリザンド」を聴いてみる際の助けになるかも知れません。隣国イタリアにはジェラートがありますが、シャーベット(ゾルベ)とは似て非なるもの。甘ったるいアメリカのアイスクリームとはなおさら違いますね。会話でも微妙なニュアンスを伝えなければならないことがあるでしょう。そういう場合はやはり文化を反映しますね。

シャーベットを作るために温度をどんどん下げて行って、ある一線以下に下がると唯の氷菓子になります。そして、少なくともシャーベットに関する限り、フランス人はその微妙なニュアンス伝達に成功していると思います。結局は国民性でしょうか。それぞれの味わい方に長い間どっぷり浸かっていると、それから食の好みや生活規範も決まってきます。だからこそアメリカ料理にはアメリカの、イタリア料理にはイタリアの、という地域性が出るんじゃないでしょうか。ただしフランスは度量が大きいというか、色々と異なる論点を受け入れて呉れるようです。そして、その中で詳細な点を改善し、ついには最適な温度を選び出しているのではないでしょうか(だからこそ、大改革はフランス発のものが多いのでは)。人間がいつの日か味覚と嗅覚を記号化することに成功するまで、繰り返しシャーベットを思い浮かべてこのCDを聴く必要があるようです。それにしても、あれだけ数学(抽象)に秀でたフランス人が「ニュアンス(ここでは以心伝心と言っても可)」を武器にしているとは驚き。
千葉のF高


登場人物の経歴不明のまま、このオペラは終わります。何か、歌舞伎や能の肝心な部分だけ取り出して上演するのを観聴きしたような気分です。ちょっと不条理劇っぽい。これは仕草、衣装付きの舞台で見てみたいと思います。どうしても登場人物が複雑で分かりにくいため、誰がこのセリフを喋っているのかが見れば分かる舞台であって欲しいのです。明りと衣装でそれは可能でしょう。最後の場面で医者、アルケル王、ゴローと言った似た音域のキャストのセリフが続く所では、この作者は演出に期待しているな、と思わせました。実際過去に上演された「ペレアスとメリザンド」ではまるでギリシャのニンフたちみたいな衣装とか、広がるような髪をドレスの裾で表現するとか、で上手く現しています。言葉は大事ですが、見える様にすることで私みたいな「その他大勢」を取り込むことに反対する者は居ないでしょう。実際これは可視化が欲しいな、と意識させたオペラのCDでした(私のように可視化を斜めに見ている者にとっても)。ただし可視化には節度が求められます。そのためにはテキストを十分に理解する努力が必要です。録音だけする場合は、声のコントラストをはっきりさせることが求められます。その意味ではこの「ペレアスとメリザンド」のCDは、男性陣の声は深々として魅力がありますが、アルケル王の声をもう少しゴローと違った声色にして欲しく、またメリザンドの声をもう少し生きている者の声にして欲しいと思います。特に後者はジュヌビエーブの魅力ある声と比してほんの少しだけ平板でした。メリザンドの性格を出すため、という理由があるならそれなりに分かりますが、私の耳にはジュヌビエーブの声の方が魅力がありました。このメリザンドのあやふやで取り留めの無い声は、この世から大きく離れています。
これでこの章おわり。











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