(221) 「さまよえるオランダ人(ワーグナー)」を観て
2012年6月初旬にワーグナー「さまよえるオランダ人」のコンサート形式の全曲演奏(東京アカデミッシェカペレ)が行われ、私も妻と一緒に生演奏に接しました。雨になりそうな蒸し暑い日でしたが、我々はもう一つの音楽イベントのあと、すみだトリフォニーホールへ。日曜の午後1時半開幕という絶好の時間割なのに、会場はやや空席がめだちました。でも前回の「マイスタージンガー第3幕」よりさらにまとまって良い演奏でした。

キャスティングは、ゼンタ(並河寿美)、オランダ人(大沼徹)、ダーラント(小鉄和広)、エリック(片寄純也)、舵手(高野二郎)、マリー(小川明子)、指揮(飯守泰次郎)。そして狭い船を表す狭いオーケストラボックスを全面持ち上げた舞台があり、その最後部にさらに踏み台を置いた合唱団席があります。不協和音に始まる序曲は素晴らしくまとまった音でしたが、それに続く合唱の見事なこと!合唱はバス/バリトンのグループと、テノール中心のグループに分かれますが、特にバス/バリトンのグループの歌声のすばらしさ!それはコンパクトなレンガを積み上げた様な、素晴らしい響きでした。この合唱団は全体の特筆ものです。それは何も括弧の中に、「これが無ければ」、「あれさえあれば」、等と書く必要の無いもの。バイロイトの合唱CDだってあれほどまとまっていない。女性陣の合唱も、良くある弱めた声では無かったので、満足。男性陣と組む酒盛りの場面では、男声女声相まってヒャホーと最後に叫ぶのは意外でしたし、これで良かったと思います。繰り返しますが、あの男声合唱のグループの声はすばらしい!

ソリストの活躍ですが、ゼンタを歌った並河寿美の声は息を潜めて聴きましたが、それは不要な心配だったようです。高音をピシッと決める様はヴァルナイの声を思わせます。そう、多くの歌手を思い出しましたが、音色とアクセントの付け方、等で正にヴァルナイでした。コレだけ歌えるヒトが他にどんな役を持っているかと興味深くパンフレットを読みましたが、あまり参考にならず。大変なスタミナの持ち主です。もう一人の女声マリー役だって、これだけ声のあるヒトは珍しい。オランダ人は、何か過去に重い記憶があるのを思い出して歌うかの様でしたが、如何にもオランダ人ですね。余人とは品格が違う。これと比してダーラントは余り嫌らしくなく歌いましたが、オランダ人と一緒に舞台にいる場合、視覚がありますから余り迷いません。オランダ人の特徴はそこはかとない高貴さでしょう。舵手もきれいな声をしていました。こう書くと声楽的特徴とは声の美しさか、と思われるかも知れませんが、決してそれだけではありません。ゼンタの声の切り込むようなところ等、演劇的な評価にも耐えます。並河の声質は次に「神々のたそがれ」かイゾルデが期待されます。あまり時間が無いので急げ!

また其れ以外に、ウインドマシンというのを初めて意識的に見ました。これで風吹き荒ぶ様を表していたのは、見るだけで納得。全体としてこの「さまよえるオランダ人」は舞台の視覚ぬきの、単純な表現が生きたもので、近来の傑作でした。それにしても改めてスタミナのあることが要件ですね。ゼンタは立ち詰めに近かったけれど、それに耐えて舞台に立っていました。



(222)過去のヴェルディとワーグナーの可視化
もともとオペラは演技が付きものです。今までソースはCDがメインだったので、「声のみの記録」に絞って聴いてきました。演技を取り入れるとCDでなく、DVDの登場となります。初めの頃、オペラが珍しかった時代には、録画できるならそれだけで良い、と言う調子でしたから、今思えばよくもこのようなものを残したな、と言いたくなる様なものも散見します。もちろん初めの頃のものは、ビデオのVHSやβからの転写です。それらが日本に最初に発売されたのは恐らくオッフェンバック「ホフマン物語」ではないかと思います。私も昔買って恐る恐る観ましたが、今思えば、あれは希有の「ホフマン物語」でした。歌手達が皆若い!それもプラチード・ドミンゴのホフマン、ルチアーナ・セッラのオランピア、アグネス・バルツアのジュリエッタ、イレアナ・コトルバスのアントニア、ジョン・シュレジンジャーの演出、ジョルジュ・プレートル指揮のコヴェント・ガーデン王立歌劇場(ROH)管弦楽団、という豪華キャスト。パイオニアPILC-1017

それからあっという間にオペラのDVDは世の中を席巻し、画面映りの良い歌手が起用されるようになりました。そういう歌手は、声に問題を含んでいたかも知れませんが、オペラの印象はやはり視覚の要素は大きい!どんな悪声でも、どんなに声の演技の落第生であっても、見た目の美しさでヒトを幻惑することも可能です。

あれこれあったものの、DVDも落ち着いて来た現在、歌手の演技を観る目も冷静になり、声を聴く耳も冴えて冷静になり、おのずと現今の歌手達の評価もできるようになりました。少しあとから、遡って画像を見ると色々と、昔は分からなかった点や、無視していた部分が浮かび上がってきます。以下に最近観たDVDオペラの例について述べます。対象とするのはヴェルディの開花期、飛翔期、円熟期を代表する
「ナブッコ」、「トロヴァトーレ」、「アイーダ」を取り上げます。これに対してワーグナーはあの長大な「ニーベルンクの指環」(ラインの黄金、ワルキューレ、ジークフリート、神々のたそがれ)を取り上げます。要するに色々、観る角度を変えてオペラを楽しもうというワケ。まずここではヴェルディ「ナブッコ」から取り上げます。この曲は今年2月(2012.2.17〜19)に二期会で取り上げました。



(223)モノローグ ヴェルディ「ナブッコ」の楽しみ
ヴェルディ「ナブッコ」は1979年のパリ・オペラ座の実況で、主役のナブッコはシェリル・ミルンズ(B)、アビガイーレはグレース・バンブリー(Sop),イスマエーレはカルロ・コスタ(T)、フェネーナはヴィオリカ・コルテス(Sop)、大司教はルジェロ・ライモンディ(Bs)、そしてヘンリー・ロンスの演出、ネルロ・サンティ指揮のパリ・オペラ座管弦楽団、ドリームライフDLVC-1027。まるで西本願寺の中みたいな、キラキラした金色の衣装と装飾。原則的にいにしえ風の衣装ですが、少し派手すぎるかも知れません。また最初や最後の幕ではもっと現代風(といってもヴェルディの時代の)に装った男女が目立たないように奥に配置されています。

やはりグレース・バンブリーの手と腕の演技が目立ちました。ここではやや声が小さく聴こえます。アビガイーレと言えばややヒステリックな叫び声や、燃え上がる憎悪を連想するので、少しだけ失望。フェネーナ役は以外なほど良い声をしています。大司教等に与えられた歌の中には、これは無理矢理挿入した歌かなあ、と思うものもありました。

有名な「行けこの思い、黄金の翼に乗って」はヴェルディが3作目にして一挙に有名オペラ作曲家になった合唱曲ですが、あと何かが欲しい!あれほど有名な歌だけに、あれがイタリア国家に喩えられた秘密を明らかにしたい。テンポか、リズムか、音量か。これ左手の部分が3拍子でスンチャッチャ、スンチャッチャですよね。以前マーラーの交響曲の箇所で記した様に、この世に3拍子の軍歌があったら感覚的な熱狂は有り得ないだろうと思うのです。特に「ナブッコ」では音が小さいです。もっと大きな音で、はっきり3拍子を明確にして刻まないと。もしやはり初演の時もこの調子だったとすれば、時代のせいかも知れません。つまり時代が求めたイタリア統一への想いが熱狂を生んだのかもしれません。「アイーダ」とはやはり違います。

アビガイーレは掌を開いて大きく腕をふったり、広げたりしたと書きましたが、彼女が受けた訓練のせいでしょう。バンブリーはこの頃から、「私は欧州では一番のソプラノ」という風な発言をし始めたようです。この文の次に記します「アイーダ」ではまだメゾ・ソプラノの時代の声を引きずっています。どうしてメゾ達はかくもソプラノにこだわるのでしょうか。ナブッコというオペラは私は舞台で見たことがあり、その時のアビガイーレはブルガリアのゲーナ・ディミトローヴァでした(
ANF、ANF-3502と同じ演出)。その時の私の感じは、ディミトローヴァは思った程高音が自由でないな、というところでした。その中味は「音楽のすすめ」第1章1話「強い声のオペラ」を参照して下さい。画像の無いCDならレナータ・スコットのものとエレーナ・スリオティスのもの、そしてディミトローヴァ自身がブルガリア語で歌ったものを持っています。
千葉のF高



(224)モノローグ ヴェルディ「トロヴァトーレ」の楽しみ
ご存知、スペインの名花モンセラ・カバリエ(Sop)のレオノーラ。アズチェーナ(Ms)は、イリーナ・アルヒホヴァが担当し、マンリーコ(T)はルドヴィコ・シュピース、ルーナ伯爵(Br)はピーター・グロソップ、フェランド(B)はニコラ・ザッカリア、サンドロ・ヤークイの演出、レナルド・ジョヴァノッティ指揮の仏国立放送管弦楽団、1972年オランジェ音楽祭(フランス)の実況、ドリームライフDLVC-1071。やはり古い録画のせいか、画像がやや朦朧としています。

今まで不思議とカバリエを論じることは殆どありませんでした。嫌う理由はないし、美声であることは承知しています。なぜ今まで、やや無視してきたのかを考えると、これはカラス(Sop)やテバルディ(Sop)を賛美するあまり、怪し気な侵入者は警戒して遠ざけたい、という暗黙の意思が働いたのかも知れません(今では、いかに私が狭量だったかと反省を迫られます)。結局、カバリエは弱声領域のコントロール抜群の名手であり、テバルディは中程にある「黄金領域」で色気を感じさせる抜群の名手ということになりそうです。

確かにカバリエは巧いのです。演技力は余りありませんが、あくまで歌手として優れたヒトだったと言いたいのです。歌はどうかというと、ピアニッシモのコントロールが実に巧く、しかも音程に不安がありません。あんなに美しいピアニッシモは滅多に聴けないもの。最も有名なアリア「恋は薔薇色の翼に乗って」のカバレッタの最終部分は、少し耳慣れないような音程(2度位高めの音を出し、音符を少し省く等)でしたが、それを除くと問題なし。登場後しばらくして発声が少しまずくなった(本人が気がついて、舞台上をクルクル廻っていました)シーンが一カ所ありましたが、それを除けば申し分なし。顔の表情は余り変化しないし、デクの棒だといえば確かにその部類(つまりCD向きの声)。でも、あの安定した声を聴いていると、ゆったりと音楽を楽しめるのです。

他の歌手達の中では、アズチェーナ役のアルヒホヴァが出色。その声はやはり昔ベルリーニ「ノルマ」(アダルジーザ役)の舞台で観聴きした旧ソ連のエレーナ・オブラスツオワ(Ms)にそっくりでした。これも古い私のニューヨーク日記(音楽のすすめ、第5章、第4-4話、NY-見聞きした音楽情報−2)に書いてある通りで、「少し遠くから響くような声で、油が良く乗り、弾性に富んだバネのよう」です。
千葉のF高



(225)モノローグ ヴェルディ「アイーダ」の楽しみ
これもオランジェ音楽祭(フランス)の実況。一時スカラ座やメット出演で飛ぶトリを落とす勢いだったメキシコのジルダ・クルス=ローモ(Sop)のアイーダ、そしてグレース・バンブリー(Ms)のアムネリス、イングヴァル・ヴァクセル(B)のアモナスロ、ルイージ・ローニ(B)のエジプト王、チャールズ・ハミルトンの演出、レナルド・ジョヴァノッティ指揮の仏国立放送管弦楽団、1976年オランジェ音楽祭(フランス)の実況、ドリームライフDLVC1052。

クルス=ローモは「ヒリヒリする感じのソプラノ」と1979年の私のニューヨーク日記(音楽のすすめ、第5章、第4-2話、NY-放送の多様さ)に書いたのですが、同時に「しかし演技は巧かった」という感想も残しています。この時は妻と一緒に珍しくもメットのボックス席に座りました(通常はファミリーサークル専門)。またヴェルディ「オテロ」をメットで観た時もクルス=ローモとドミンゴの歌唱でした(音楽のすすめ、第5章、第4-10話、フラグスタートのレコード)。

人々は白い衣に身を包んでいますが、暗い背景とよいコントラストをなしています。戦いに出発するラダメスを勇気づける人々の「イケイケの歌」は、ずらっと並んだ姿と共に見もの。こういうのを観ると、オペラは歌だけじゃないなあ、という思いが再び強くなります。ラダメスはやや甘ったれた声の持ち主で、バンブリーは顔の表情を観ていると面白い。アイーダは声がやや貧相な感じがしますが、それでも顔の角度決めや表情づけは申し分ありません。

第2幕では行進曲が有名ですが、やはり平面上に静止するように白いシルエットが並びます。この演出は屋外劇場では有効。もう一つ目立ったのがバンブリーの腕の動かし方。あらゆる場面でゆっくり腕を回したり、高く掲げたりするのですが、まるでワーグナーの楽劇を演じているみたいで不思議な感覚。クルス=ローモは相変わらず薄めの声ですが、高音を出す上で問題は無いようです。

第3幕。ナイル川のほとりの場面では、クルス=ローモの音程が少し悪いのかなという印象。相手のテノールの発声はまるで年寄りの声だっただけに、ここはアイーダの声がしっかりしている必要があると思います。クルス=ローモは眼がキョロキョロするクセがあるのですが、それも演出と思えば許されます。むしろ、この後半ではアムネリスの声が一段としっかり響くのに感心しました。それを演じるバンブリーはまたもや腕を上げたり指を広げたりしていましたが、あれはいつもああするのでしょうか?それともこの演出に限り、でしょうか?

今もまたアムネリスが神官達とやりあう場面の音楽が、頭の中をぐるぐる回っています。あれこそオペラ「アイーダ」の華だと思います。バンブリーはますます力強く、聴く者の注意を第4幕まで引きずって行きます。大変な緊張感。世の中には、オペラ「アイーダ」はむしろオペラ「アムネリス」だという説もありますが、確かにそうかも知れないな。
千葉のF高



(226)モノローグ ワーグナー「ニーベルンクの指輪」の楽しみ
ここで取り上げるのはニューヨークのメトロポリタン歌劇場が1990年に世に送り出した「指環」のDVDです。いずれもジェームス・レヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団、ポリドールPOBG-1001/7(最も古い録画物はおそらくパトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮のバイロイトのものでしょう。このあとから、ミュンヘン歌劇場実況も出ました)。

「ラインの黄金」:神々の城ヴァルハラを建てた(たい)ヴオータン(B、ジェームズ・モリス)と、地下のニーベルンク族の長アルベリヒ(Br、エッケハルト・ウランハ)の争い。アルベリヒの姿にはゾッとしますが、見ているうちにラインの乙女達のことを考えてしまいました。ラインの乙女って、ヴオータンの子孫では無いし、ヴオータンの一族でもないのですね?同じく3人いるノルンたちがエルダの子孫であることははっきりしていますが、ラインの乙女の方は指環を取り返した後、ライン河で、父親の言いつけを聞いて暮らすことになっています。その父親って誰でしょうか?其の父親の存在は、多重権力の象徴みたいになっています。

・ 巨人族もまた、ファーゾルト(B、ヤン=ヘンドリック・ロータリンダ)とファーフナー(B、サルミネンがこの役とグンター役を両演)しかいない様ですが、他の巨人達は既に滅びてしまったのでしょうか?ワルハラに現れるドンナー(B、アラン・ヘルド)やフロー(T、マーク・ベイカー)達はここにしか登場しませんが、その演技は少しくすぐったい感じ。ローゲ(T、ジークフリート・イエルサレムがこの役とジークフリート役を両演)は腕を後ろで組む演技等が良かった。フリッカ(Ms、クリスタ・ルートヴィヒ)は堅い婚姻を守る象徴みたいですが、ブツブツ文句を言うと思えば、金のアクセサリーも欲しがるという性格。ヴオータンに寄り添わなくては、その存在価値も無しか。ここで唯一マトモなのがエルダ。地母神の知恵はヴオータンを上回り、犯し難いようです。大層立派な役だから、これをヴァルナイやメードルが引き受けても、ちっとも構わないと思うのですが(実際には拒否)。最後のワルハラ完成後の進め方は、少しチャチな感じがします。せっかくの音楽も余り鳴らず、そこを進む神々の姿も少し哀れ。

「ワルキューレ」:まずゲイリー・レイクス(T)のジークムントの姿にがっかりします。声が少し老けている上に、視覚的にも想定15歳ちょっとの感じは無理。そしてジークリンデ役のジェシー・ノーマン(Sp)に再びがっかりします。これも15歳頃の想定とはほど遠く、堂々たる重量あふれる姿。こうなると視覚抜きのCDの方が良いかな、とも思う次第。ノーマンは彼女が有名になった初期からCD(シューベルトでした)で聴いていますが、知的な歌唱ですし、満足していました。LDでは、ベルリオーズ「ディドとエネアス」のカッサンドラ役をよく観てきました。

・ ジークムントの動きを観ていると、トネリコの木に刺さった妖刀ノートウングに気がついて引き抜く所で、幾分ぎこちなさを感じます。相手方のノーマンも叫んではいますが、もっと激しく叫ぶ方が私の好み。でも第1幕の幕切れで、扉がさっと開く場面など、なかなか用意周到な舞台作りだったと思います。イエルサレムは昔の私のニューヨーク日記に「これでは余り英雄的な役は貰えまい」と記していますが、それは外れました。しかし私自身は第1幕はシェロー版のペーター・ホフマンの演技の方が好きです。あの方(
フィリップスPHLP-10018〜9)がずっと情熱的。

・ ブリュンヒルデの雄叫びで開始する第2幕では、それを担当するベーレンスに「待ってました!」と掛け声を掛けたくなる貫禄が欲しいところ。そんなに動き回らなくても良いのでは。妊娠の告知の場面でジークリンデは、やはりあの体を持て余して、動きが不足でした。それにベーレンスも敏捷な動きが見られず。憎らしいフリッカ役のルートヴィッヒは、年をとったな、という風貌でしたが、声や演技は巧くこなしていました。

・ 第3幕はワルキューレ達の飛び回る部分で開始。ワルキューレ(戦乙女たち)は少し軽い声ですが、そこに登場するブリュンヒルデもやや軽め。ヴオータン役については、やはりブリュンヒルデとの関係が分かるように明解な動きをするように、と演出家から指示して欲しかった。そしてあっさりと告別の場面になっていきます。結局あれほど期待した舞台という割には、予定を消化した、という感じです。この演出は、メットの日本引越公演の舞台でも観ました。

「ジークフリート」:ジークフリートは大変な負荷がかかる役だと再認識しました。それにしてもジークフリートって、憎めないけれど、大変な世間知らずの恩知らずですね。その仕草は少年っぽく(遠くから観れば)見えたでしょうが、大きな画面に写すと何か変。あれでジークフリートは15歳プラス程度ですか?ちょっと信じ難い。妻は刀鍛冶の場面の余りの長さに「凄いパワーね」と感想を述べましたが、ああいう長い歌を覚えるのは大変だったに違いありません。大蛇の姿はよく見えず。ミーメ(ハインツ・ツエドニク、T)は適役。小鳥の声は大したことない小役でしたが、エルダは重要。エルダが出て来ると、観衆の注目も集まりますし。

「神々のたそがれ」:ここではマッティ・サルミネン(B)のハーゲン役が素晴らしい。あの目つき、クビの傾げ方など、悪役丸出しで、しかも最低音域まで出しています。男声合唱にも期待しましたが、力強さがあと少し欲しいな。この第2幕で裏切られたブリュンヒルデはジークフリートに対し怒りを爆発させ、ハーゲンに入れ知恵をしてしまいます(ジークフリートの背中に一カ所、竜の血を浴びなかった故、人並みの皮膚の場所があること)。このシーンで思い出すのは、指環を録音した故ジョン・カルショウの「キルステン・フラグスタート(Sop)の演唱を聴き慣れていたので、実際の彼女に逢うのを恐れていた。しかし、その穏やかな主婦姿には驚いた」(第2幕のブリュンヒルデは激しい)という記事。そしてルートヴィヒがブリュンヒルデの妹ワルトラウテ役を演じるところ、せかせかとして落ち着きが無い風情をよく演じていますが、ルートヴィヒの顔の皺が目立ちます。

・ そして第2幕では緊張した声を期待しますね。なにせ尋常ではないのです。男達の歌う合唱を突抜け、聴衆の耳をヒヤっとさせなければなりません。フラグスタートやニルソン(Sop)、ヴァルナイ、メードル(Sop)という一連の大歌手のみに可能だった歌唱。しかもここではブリュンヒルデは余り高い音が無く、むしろソプラノとしては低過ぎるような声で歌う場面が多いのです。だからこそ、ヴァルナイは白鳥の歌として1968年のバイロイト音楽祭で「神々のたそがれ」のブリュンヒルデを歌えたのだと思います。そしてベーレンスはこの録画当時は全盛時代のど真ん中でしたが、ドスとスタミナが少し足りない。スタミナなら申し分無いのがギネス・ジョーンズ(Sop、英国)ですが、彼女が思い詰めたような表情を出すのは、温厚な彼女のパーソナリティでは期待できないかも。ジョーンズのはシェロー版の録画で出ています。

・ ジークフリートが軽い性格を持っているのは分かりますが、それがああいう結果を招いたのも事実。その葬送曲は、一人で聴くと私にとって縁起の悪いことが起きる曲(「音楽のすすめ」第2章、第20話、神々のたそがれを参照)。今回見聴きした時は妻と一緒でした。ジークフリートの遺骸をギビフングの館まで、遅いテンポで運ぶシーンは印象的でした。最後の炎上シーン辺りでは、ブリュンヒルデの声が思うように出ていませんが、それでも腕を上げる演技で盛り上げています。ここで何故ギビフングの館にも火が付いたか、神々のワルハラで神様達はどのような顔をして最期を迎えたか、など幾つか疑問に思いましたが、文句を言えばキリ無し。

・ ベーレンスの後を継ぐ歌手として、このレヴァインより年長の指揮者の故ゲオルク・ショルティはワルトラウテ・マイヤー(Ms)とシェリル・スチューダー(Sop)を上げましたが、まだ歌えるのでしょうか。バイロイトから届く昨今の歌手たちは、名前だけでは分からない程多い。余り大型歌手を揃えようという意志は無いようです。バイロイト音楽祭も様変わり。
千葉のF高



(227)モノローグ 聴覚だけによるベームVSカラヤン「指輪」の比較
ベーム盤とカラヤン盤の2種類あります。全曲盤については既に書いたので、ここでは抜粋だけ比較し、それぞれレコード会社がどういう思惑で編集したかを問おう、という次第。まずベーム盤ですが、これはショルティ盤録音の時期と殆ど一緒の1967年のバイロイト祝祭劇場の実況がソースになっています。一口に言うと、ベーム盤では歌手達の都合がつかず、歌手に関しては玉石混淆です。例えばレオニー・リザネックが登場しますが、彼女のジークリンデを聴いていると何かしっくりしない。欠点ばかりが目につきます。声が疲れているようで、もっと湿りが欲しいし、色々。ジェームス・キングのジークムントと釣り合いがとれません。なにより、ここではバイロイトの実況ということに重点を置いたようで、徹底して祝祭劇場の雰囲気を伝えようとしている、と言えば褒め過ぎでしょうか。なにかこじんまりした、ホコリの舞う小さな舞台の上に、この大作を載せてみようとしているように聴こえました。オーケストラだって余り上手くありません。そもそもベームは上手い演奏を求めていないようです。それが上手く働く瞬間は良いのですが、聴き終えた時の印象は、ヤレヤレようやく終わった、という感じが否めないのです。それは抜粋をピックアップしたヒトの責任でしょうから、これでベームはダメとは言いません。ビルギット・ニルソンがブリュンヒルデで登場しますが、彼女の歌を聴いていると、音程がややあやふやに聴こえました。

カラヤン盤は1966年〜70年の録音なので、これもベーム盤同様にショルティと殆ど同じです。実況ではなく、スタジオ録音。直ぐに気がつくのが音が丁寧に磨いてあることです。これは誰の耳にも明らかだと思います。グァンドラ・ヤノヴィッツのジークリンデなんて実にか細い声なのですが、カラヤンの好みで彼女がここではジークリンデを歌っています。その余徳のせいで、ジョン・ヴィッカーズも声の衰えに気づかないで済みます(私が1985年と1986年にメットの「パルシファル」を聴いた時の痛々しい程の衰えは感じられません)。ブリュンヒルデを歌うヘルガ・デルネシュの声は当初弱々しかったのですが、「自己犠牲」の場面では立派に歌っています。管弦楽を操ることではカラヤンはやはり立派な腕を持っています。それはテンポを落とし、細部に焦点を当ててゆっくり進むことのようです。
千葉のF高
「さまよえるオランダ人」を除く部分は2012.1.11に書くつもりだった章です。今後DVDによるオペラ可視化がさらに進むでしょう。新しい時代には新しい歌手が求められるというのも、現実だと思います。初めて聴くオペラを選ぶのに、最初に声だけのCDを選ぶことは減って来るでしょう。でもひょっとして、そういう古いCDを求めるさらに新しい波が来るかもしれません。
この章終わり。













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