父の日のプレゼント   2012,6
池田麻理子の"All bout the Met(日本語)"を父の日に貰う)
これは池田によるメット運営に関する記録集です。2010年までを記載。必ずしも最新ではないし、そもそも古いオペラ歌手達を網羅するものでもありません。言ってみれば「メトロポリタン・オペラの全て」の代わりに「メトロポリタン・オペラの運営の現状」と考えた方が良さそう。今年の父の日に娘からプレゼントされた過去約25年のアンソロジーです。最近交替したメットの監督によってもたらされた演出の悩み、古い世代の取り込みの困難、オペラハウスには付き物となっている軋轢等、がオープンな視点から論じられています。面白かったのは、いかにして資金を得るかと言う単純な問題、それにどのように対処してきたかという点です。著者は誠実にそれらを取り上げていますが、オペラファン論、新旧の演出の比較、歌手達の振る舞い等はやや筆の力が弱くなります。どうしてもオペラを書く以上書かざるを得ないし、どこからそれらを引っ張って来るか、という点で著者の悩みのようなものを感じ取りました。いわゆる「オペラ好き」とは異なる視点から見たものです。

古い手帳を探していたら過去の旅行記が見つかったので、下に記します。
   


(228)オーストラリア万感   (殆ど手帳に残ったまま)
1988年4月8日(金)
白いパンというものを中学校時代の担任の先生に教え込まれました。オーストラリアのパンって白いのよ、ああいうパンは日本にないわね、といわれて日本はまだ貧しいのだろうと考えた次第。考えて見ればこの時はまだ敗戦後12年しか経っておらず、まだ対日感情が良くなかった時代、世界中から日本人が嫌われていた時代です。オーストラリア行の切符が劇的に安くなってからあまり経っておりません。カンタス航空の独占的ルートで、従って1988年にIMP会議で行った時は随分経費がかかりました(出張と言っても全部自腹です)。競争相手となる航空会社がないから仕方がありません。

朝9時ごろ家を出ました。昨夜来の小雨。サンドイッチで昼食を済ませました。チェックイン後、ロビーで待っていたら、アナウンスがあって、出発は数時間遅れるとのこと(夜8時40分とか)。接続便が見つからないのだそうです。シンガポール航空のスタッフは冷たい。オーストラリアへは9日の夜11時半発だと言う。ホテルを何とかしなくちゃ。シドニーのクレスト・ホテルにテレフォン・カードで国際電話をかけ、遅れるが、それでも部屋は取っておいて欲しいと伝言。ひたすら座って待つのみです。幕の内弁当が出ました。

ようやく出発しましたが、右後の男から席を替わってくれないか、と言われました。結果的に右側にはイギリスに3ヶ月留学するという女の子。夜1時半ごろディナーの機内食、そして朝4時ごろにお茶が出ました。4時半ごろシンガポールに到着。トランジット・オフィスでやきもきしました。僕の荷物が出てこなかったのです!パラマウント・ホテルまでマイクロバスで運ばれました。9日の3回分の食券を受け取りました。ホテルではただ寝込んで過ごしました。シャワーも省略。とにかく疲れた。

4月9日(土)
朝9時半ごろ起床。着替えが無いのでシャワーも省略。窓から海が見えます。近所の散歩に。外は暑い。きれいなアパート群が近所にあり、またチャイナタウンもあったのですが、海は見つかりませんでした。ショッピング・センターを探索。ホテルのセンターで航空機の出発時間を聞くと、夜9時だと言います。コーヒーショップでランチを食べましたが、本当に海外では一人だと、まず食べるのに困るのです。どこでも2人を前提にテーブルを配置していますから。そばにはウイーンに行く連中が何人もいました。乗り継ぎ便だから、とにかくすることもなく、ただ歩き回るか、部屋で待つしかありません。明るい顔をしているのは中国系か。彼等の英語は巧いと思います。夜9時にロビーに行ってマイクロバスに乗車。左側がマレーシア人、右側がオーストラリア人。ビールの押し売りあり。

4月10日(日)
朝方、窓の外は砂漠でした。地面には雨水が溜まっています。日の出が遠方の水平線に浮かぶ。シドニーのスミス・キングスフォード空港からはタクシーを拾いました。1時間もかかるのだから仕方がありません。きれいな街。チェックインした後、道具一式を持って会議をやるヒルトン・インターナショナル・ホテルへ向かいました。まるでニューヨークの8番街みたいな感じ(道路に草がはえている)。まずIf氏に逢いました。IMP参加を登録したあと、会場でIeさんと遭遇。ポスターを貼っていたら、女性がハサミを借りに来ました(この会議では殆どがポスター)。Foさんが覗きにきた。

ここからタクシーでサーキュラー・キーへ行きました。朝寒そうだからと思ってセーターを着ていきましたが、運転手に雨さえ降らなければいい気候ですね、と言ったら運転手は「とんでもない。雨が無いと」とのたもう。6番桟橋からコーヒー・クルーズの切符を買う。2時15分発で18ドル。ギリシャのソプラノ、エレーナ・スリオティスそっくりのプラチナ・ブロンドの案内嬢がいた。港から眺めるオペラ・ハウスは、まるでジュラルミン製の要塞。乗った船はブリタニア号と言って、ユニオン・ジャックの色をしています。やはりこの街は建物の形がまちまちでした。入り江のすき間から、遥かに遠くにタスマン海を眺めました。確かにあの先に横たわっているのはニュージーランド!

雨が降ってきたので、帰りはタクシーでホテルに戻りました。それから洗濯をし、レセプションに備えてネクタイを結ぶ。それから歓迎会の会場へ。歩いていったが、途中、灯のトンネルをくぐってセンター・ポイントのグランド・ホールへ直行。行ってみるとNy大の人々が沢山来ていました。会場では食べ物が少なくて、あっという間に皆の胃袋へ。突然米国YYY機構のH氏がMaさんを連れて現れたので、挨拶しあって再会を祝す。Ieさん、Ikiさんと一緒にシーフードを食べに出掛けました。途中まではタクシーで、あとは歩いてホテルに帰還。ダーリング・ハーストはごった返しています。

4月11日(月)
くたびれて目覚ましベルが聞こえなかったようです。電池切れか?7時ごろ起床。シャワーを浴びて、リコンファメーションを電話で済ませました。ただしシドニーからシンガポールの分だけ。それから歩いてセンター・ポイントへ。会場ではまたH氏とMaさんに逢いました。またイタリアの老嬢Ixにも。彼女はSaのボスなのです。開会式ではCrの挨拶があり、またオーストラリア総督への挨拶も。さらにBnなどセクレタリの紹介。St賞がJiに与えられましたが、当然でしょう。ただJiは声が高いので少しがっかり。ドイツ訛りのサイエンティフィック・セクレタリだった。昼食はIeさん、Foさんとヴィクトリア・ホールへ行き、サンドイッチを食す。またここでオパールとか香水などお土産を散策。アボリジニの織物がありましたが、聞いたら100ドルぐらいでしたので買いました。

午後はRkに関する話を聞く。Tuk大のKoさんを見つけました。Rkって何だろうと思ったのです。午後はXXのセッションで、Svが座長でした。後半はフィンランド人が替わりましたがこれは駄目。あくまで舞台回しをやっていたのはSvでした。英国NXXのWbが良い英語で話す。分かり易く、きれいです。しかもゆっくりして、流れるような英語です。同じ英国NXXのWnは聴衆からサンプリングなどデータの質に関する質問を受けましたが、無視して答えず。

Ie氏と地下でアイスクリームを食す。またシティ・ホールとか隣の教会とかも覗く。今晩は正規の歓迎会があるので、バッグ類を預けて、赤ワイン→白ワイン→コーラ→白ワイン→コーヒーを飲みました。バンドが入ったり、ブッシュ・ダンス、羊の刈り込みの実演等があったので、2階から見物しました。そこでブラジルのEhとIAEAのAmdと逢いました。終了後のダーリング・ハーストはごった返していました。クレスト・ホテルの前でも少年少女たちが客引きをしています。あそこは危険地帯だと言われたばかり。今日はくたびれました。

4月12日(火)
少し寒くて起きたのは8時。シャワーを浴び、外出の用意をしていたら、メードが掃除のために入って来ました。雨を気にしていたので傘は持って出ましたが、会員証の名札を忘れたのを思い出して戻りました。センター・ポイントのグランド・ホールへ行って、ポスターを見るため一周。自分の発表したビラ資料が全て無くなっていた(全て売り切れ)ので安心。Ieさんの資料も残ったのは2〜3枚だけ。展望台に登ると霧雨のためよく見えません。そこで記念スライドを購入。ヒルトン・ボウルルームではXXXセッションがあったが、座長はCnでした。人好きする顔。昼食のためFoさん、Ieさんと一緒にヴィクトリア女王ビルディングへ。そこでまた米国のH氏と遭遇。今度は彼一人でした。サラダ大盛りとシュベップスを注文。前者は生に近い野菜だったが、3ドル95セント。後者は85セント。

3人でベイトン・プレイス近くの郵便局から、荷物を日本へ送ることにしました。大型の切手を買い、メール・ボックスを購入。メール・テープを貰おうとして尋ねる。ここは東洋人が多い。Foさんと2人でタクシーでロックスへ。アーガイル・アート・センターはお土産屋。アップ・サイド・ダウンの地図(南半球にあるオーストラリアを上側に描いた地図)を購入。さらにインフォメーション・センターや、シドニー最古の家を見ました。それから教会に向かったら、途中から大雨。そこでブーメランその他を購入。

今度はタクシーを使わずに徒歩。Fo氏は銀行へ。僕はヒルトンへ。Mnに関する内容でしたが、Orというフランス人のセッションは、ご本人の発表を延々と延ばす。英国SdのPsがラポトール(まとめ役)でした。イタリアのXEAの研究を、ラポトールとして信じられない、と言ったものだから大論争になりました。政治的理由が色々あるようです。その後Foさん、Ieさんと再度ロックスで食事。そこで20歳の誕生日をここでささやかにやっている、という日本人の客一人と隣り合わせ。我々の席に招きました(ただ、あの話は巧すぎる気がします。バースにもいたことがあって、唾を吐かれたこともあったというのは、信じられません)。植え木にはイルミネーションの電球が一杯かかっていて、まるでクリスマス並み。サーキュラー・キーから2階建ての電車に乗り、タウンホールで乗り換え。そこからキングス・クロスまでは2駅です。荷物の整理に励みます。

4月13日(水)
セントメリーへ行きました。めずらしく快晴。銀行では2階へ案内されました。郵便局へも行く。ヴィクトリア女王ホールでは買い物。44ドル70セント。センター・ポイントおよびグランド・ホールのセッションに出ました。Iwさんが後ろに座っていましたが、宇宙生物学の発表がキャンセルされたので退席しました。またFoのセッションも覗いたら、3人のラポトールがいました。Fiさんが見あたらず。昼食はFoさん、Ieさんと、ロール・パンを食す。Foさんは総領事館へ行く用事があって出掛けました。

僕自身はサーキュラーまで歩くことに。この5番線からタロンガ動物園に向かいました。ANAのスカイ・キャビンが2人いたところに割り込む。インフォメーションで説明を受けました。コアラ、タスマン・デビル、カモノハシ、レッド・カンガルー、ミュー等が居るそうです。

戻ってからオペラハウスの売店に行きました。サザーランドの本を購入。図書館とアボリジアの展示会を見たあと、一旦電車で戻り、シャワーを浴び、そして着替えました。電車で再度サーキュラー・キーへ。サークル・ラインでまごつきました。今日はオペラハウスで学会の晩餐会。Nwさん、Foさんに逢う。僕の席は26番入り口の36番の席。前から2列目のB。出し物はバレエで、コミック・ダンス、キャラクター・ダンスの類いでした。まず「博物館の石膏像の物語」、そして「ホフマン物語」や「天国と地獄」などオッフェンバックの作品。「It is not Paris. Things for fortunate」とか「Only if I were young, only if you were tall」がありました。そして外の北フォイヤで立食式のパーティ。Ieさんは明日はさぼって、メルボルンへ行くと言います。ここでSAPに入る予定のDoさんを紹介され、一緒に電車でホテルに戻りました。

4月14日(木)
朝から荷物をパック。歩いてセンター・ポイントへ行くと、途中でH氏にまた逢います。ポスターの処分法メモをIMP会場に残して置きました。出国税20ドルとタクシー代12ドルを考え、帰りにヒルトンで50ドルの旅行者小切手をドルに換金。オーストラリア博物館は10時からというのであきらめ。そしてホテルをチェックアウト。向かい側のオンボロ・タクシーに乗ったら、何と運転手は裸足でした。

空港では早々にチェックイン。ソフトクリームを食べ、雑物のお土産類を買いました。ここだと半額だとか。1時20分から搭乗手続きすると言うので、それまでコーラを飲んで待つことに。ここは日本人新婚カップルが多い。実際シドニーはニューヨークみたいな雰囲気があります。飛行機では隣に韓国人が来たが、7月に帰国予定とか。周辺では日本人と日本語が増えた。隣は国籍不明の老夫婦。窓から砂漠を見ました。また湖が多い。アリススプリングス近くを通過しました(バリ島上空も通ったはず)。トイレでは何処かの子供達が順番を無視したので腹を立ててしまう。機内映画は「ウオール街」、と「天使とデート」。初めは白ワインから。4時ごろから昼食。今度は赤ワイン。8時頃からオレンジ・ジュースとスナックと称するサンドイッチ。オーストラリアからの帰国便を途中下車してシンガポールに立ち寄りました。

オーストラリア時間で、10時20分(シンガポール時間では朝8時20分)にシンガポールに到着。直ぐにオーストラリアドルの残金20ドルを換金。荷物がなかなか出てこないので気を揉みます。タクシーでクラウン・プリンス・ホテルに行く。割と立派なホテルだった。ここから自宅に電話したら、直ぐに妻が出ました。

千葉のF高
(オーストラリア旅行の終り)


(229)シンガポール/ジョホール訪問記
4月15日(金)
7時ごろ起床。シャワーを浴び、リコンファメーションをすませる。廊下に何か香料がにおう。まずツアーデスクに行き、4つ申し込む。全て英語のもの。アメリカン・ブレックファーストを食べ、外出してオーチャード・ロードをミン・コート・ホテルまで歩く。美しい部屋のつくりだった。帰りしなには、あちこち覗く。Targで買い物。なにしろ、英語力は相手の方が上である。黒蝶貝のアクセサリー等を買う。あちこちの路上では売り込みの男たち。快晴に近い。逆方向に戻りセンター・ポイントまで行く。

3時にB&Oショップあり。CDショップあり。モッフォのリゴレットとか、ジュリアードのカラスとかあったが、1枚1,500円程度か。昼食はフルーツ・プラターとアイスティー。1時半に迎えに来るシティ・ツアーへ行ったら、ポーランド人のガイドだった。鉄道はマレーシアのものだった。タイガーバウム・ガーデンはゲテモノ趣味だった。くたびれた。他の客はホリディ・インでおり、マンダリンで乗り降りするのは2人だけとみた。シャワーを浴び、洗濯に励む。

「シンガポールの夜」というツアーに行く。今度はマレー系のガイド。地元レストラン巡りで、オーストラリア人家族と、Ca夫人、Ad夫人、Joさんと一緒に食べ物のショーを楽しむ。チャイナタウンでは4家族がプライバシーなしに暮らしているという。これをpeepingツアーという。日本人の団体が、「家の中も見てごらんよ。天井が落ちそうな所もある」という。アパートの建物は4,000シンガポール・ドル以上出さないと駄目だという。これはシンガポールの年収だった。立派。20年以内にシンガポールは東京を抜くと言っていた。東京は150年前のパリとか100年前のウイーンみたいか。インドのテンプルも見た。最後にラッフルズ・ホテルへ行き、ガーデンバーで楽しむ。ジャズ、魅惑のワルツ等のピアノの生演奏つき。このホテルはアガサ・クリスティーが泊ったところとして有名。またシンガポール・スリングというカクテルも有名である。天井扇はとまっていた。ここでジン入りのフルーツ・ジュースを飲む。夜10時半ごろホテルに戻った。台湾向けの荷物を分類した。テレビは「アイス・マン」。

4月16日(土)
6時半ごろに目覚ましをセットしておいたが、その前に目が覚め、6時50分に起き上がった。シャワーを浴びる。ビュッフェで朝食を食べ、ロビーで切符がないのに気づいて戻ったら、テーブルの上にあった。ツアー・デスクには既に人々が待っていた。マレーシアのジョホールへ行こうというのだ。橋の前で入国手続きをする。税関とか、例によってスピードの差が問題。サルタンの王宮を見たが、暑い。バティークとかヴィクトリア市の寺院とか、セメトリーとか見る。やはりマレーシアは貧しい国かと思った。シンガポールのドルでも利用可能だった。さらに山下将軍ゆかりの塔とか見る。

これからシンガポールに戻ったとたんに、道路はきれいだし、芝生は刈りたてだし、という落差を感じる。これは一本づつIDがあると聞いた。なにしろシンガポールでは罰金が高いのだ。車など入ることが許される時間帯も制限がある。眠い。台湾の税関対策で再び仕分けをして、半時ほど眠る。

タクシーがなかなか来ない。中国人の運転手がライオン像のところまで運んでくれた。クリフォード・ピアで待つ。緑色のステッカーをつけたグループが多い。結構日本人が多かった。髪の長い、リボンの娘達だが、あれは玄人か?こちらは、ここから舟の旅を楽しもうというのである。インドネシアの島々が見える。ビールを飲み、ビュッフェだったのでソーダ水も飲む。手すりに寄り掛かっていた男に声を掛けられたが、Maというのはノーフォークから来たという。右にいたインド人からも声がかかる。マドラスのSaという名前で、商事会社の重役だとか。

夕やみは美しかった。眠くなってからは時が経つのが遅い。急いでタクシー乗り場へ行き、バーには寄らず、洗濯し、シャワーを浴びた。

4月17日(日)
朝6時半に起きてシャワーを浴びる。チェックアウト。タクシーで空港へ向かう。グランドレベルかと聞かれた。その通り。チェックイン・カウンタ前で、中国人の2人づれの男に声をかけられ、楽器を運ぶのに僕の航空券を貸してくれないか、というのだ。つまり僕の切符で航空搭載容量をふやし、切符の持ち主にはお礼さえ言えば良い、というシステム。例え一時的にでも切符を渡してしまうのだから、あぶない、あぶない。免税店では何も買わず。シドニーで買ったサザーランドの伝記を読み始めた。彼女がかつて放射線物理をやっていたと!隣は母親とその友人達と一緒にシンガポールまで買い物ツアーに来たという女性。まわりに日本人が多かった。右隣は中国人男性で、禁煙なのにたばこをふかしていた。出発は遅れたようだったが、それを知らなかった。

千葉のF高



(230)台湾訪問記
1988年4月17日(日)
機内では赤ワインを飲む。台北には15時5分ごろ到着。台湾はこの時点で14番目に入国した国です。桃園空港から見る窓の外は区画整理された田畑。台湾入国用の検疫等の書類を書かされました。一般に、入国審査の手間取ること手間取ること。ただ結果的に、僕自身は簡単だった。税関も簡単であっけない。うっかり換金するのを忘れていました。タクシーを拾うと900(台湾)ドルというので見かけの値の大きさに驚きます。シンガポールより日本的で、ジャカルタよりましというところ。

ホテルは貧相でした。案内係の日本語も英語も中途半端なのです。お茶を持ってきた年輩の女性に、あらかじめ礼金を渡す。そして今晩のナイト・ツアーの英語版と、明日のシティ・ツアーの英語版を申し込みました。受付は事務能力が頼りない。30分たってもバスが来ないのです。1時間後に運転手から電話がありましたが、韓国人だと言います。バスが出るまでコーヒーを飲むことに。マイクロバスでしたが、それに乗り込みました。最初の観光ポイントの円山大飯店はtricky。実はこの高級ホテルは100mも離れた所からチラと見るだけ。運転手がおぼつかない英語で説明するのを、車中にいた米国人が適当に言葉を直して呉れました。ジンギスカンを食す。スイス人、オランダ人、アメリカ人、中国人、香港人それに僕の混成部隊。フィリップスという2人連れが、ここはニューヨークと似ていると話していたが、そんなこと無いだろ?運転手は怪しげな話を英語で話していましたが、外国語だからできそうな話。

竜山寺に行く。お土産屋に行かされるのに閉口していたら、あなたはプロフェッサーかと聞かれました。これもいささかワナ臭い。蛇料理の店を見に行く。あやしげな所。蛇の炒めものとか。見ているだけで胃が痛くなりそう。15分で300(台湾)ドル分食べられると言います。夜10時半ごろホテルに戻りました。洗濯、シャワー。テレビではナターリヤ・マカロワのバレエ「ロミオをジュリエット」をやっていたのを観ました。

4月18日(月)
朝のツアーが気になって眠りが浅い。コーヒー・ショップで食事。8時35分にシティ・ツアーが出ます。シンガポール人、米国人夫妻、大阪から来た日本人二人。まず旧総督府へ。なるほどこれか、と思いました。そして中山記念堂とか音楽堂も。ここはオペラ・ハウスになるそうです(後で聞いた話では、屋根が落ちたとか。本当でしょうか?)。廟では衛兵の交代を眺め、それから故宮博物院に入りました。ここにある陳列物は全て本物。国民党が大陸から逃げてくる時に、木箱4,000箱につめて北京から持ち出したと言います。なるほど国民党も、博物の価値を承知していたものと見えます。例によってお土産屋に延々と案内される。

昼食はホテルの2階で2人分ぐらいの中華料理。欧陽菲菲の「I want your love tonight」を中国語で歌ったのが流れていました。こういう流行歌は日本と同じ。窓のそとには「欧美日」と書いたポスターが見えます。これから歩かなくちゃ。中山北路を南下。ここで、大昔、日本時代に父が最初に下宿したという2つの家を探します。大正町、樺山小学校を、天津街を通って探しました。それから幸町、東門町、福住町というのをあちこち探す(ここでは昔の名前を記す)。手元には神田で買った戦前の地図があります。フィルムを買ったら80ドル。ホテル代は160ドルだから換算するとそれは日本の半分。

さらに欲張って福州街の佐久間町、南門から旧台北師範、同付属小学校(父が教えていた)、両方でそれぞれ写真を撮りました。そうしたら警官が追いかけてきました。何かゴチャゴチャ言われたが、当方英語しか分かりませんと言って、シラを切り通す。ここで捕まったらまずいなと思ったのですが、相手が諦めたので安心。旧総督府、旧台湾銀行(ここに祖父が勤務)も見ました。重慶南路から台北駅まで歩き、線路を越えて重慶北路を通って円環公園へ行きました。踏み切りの中で、屋台が営業中。コーヒー・ショップに入り、休憩し絵葉書に切手を貼る等。合計で15kmほど歩いたんじゃ無いでしょうか。夜になると眠くて、10時前に消灯。真夜中の1時半ごろチャイムみたいな音(ドアのノックではない)がありましたが、無視。

4月19日(火)
早く寝たせいか、6時前から目が覚めました。シャワーを浴び、両替し、お粥を食す。パンチパーマの男たちと同席になりました。相席を断れず。掃除のおばさんが来て、弁当はいかがと言います。タクシーで国立歴史博物館(南海学園)に行きました。清朝の青い模様のものは、白磁だし、マイセンの原形だった、という説明が良く分かります。明朝時代のものはやや艶が不足。そして明朝時代から桃色(黄色)の彩色を施し始めたようです。唐代のものは陸奥焼、琉球焼みたいな民芸風で味わいがあります。宋朝のものは芸術的には落ちます。民芸的素朴さから芸術的ソフィスティケートへの産みの苦しみか。元朝のものは、あれこれの試みの跡が見られるがやや異質です。B.C.5,000年の弥生式土器があり、A.D.2,000年ごろからは虹色のついたものが目立ちます。7色ありました。2階の半分は中国の歴史を展示したもの。北京原人の模型や骨とか。2−4階は写真展。ヌードもありました。1階の売店で絵はがきを4セット購入。ところで無尾熊と書いたビラがあったのは何か、と思っていたら、袋ネズミのことだと言います。

台湾産コーラを10元で買って飲む。そして植物園の公園で約1時間も過ごしました。それから再び歩き始めました。西小門から老松小へ。3階建ての大きい学校でした。康定路と成都路の角を左にゆっくり曲り、淡水河を見ようとしましたがコンクリートの堤防があったし、工事中なので、あきらめました。歩道が堂々と仕事場になっています。ジャカルタは輪タクが多かったが此処はオートバイが多い。西門町峨眉街の今日百貨公司はガラーンとしていました。昨日と同様に重慶南路を北上し、台北駅を過ぎて線路を越え、中山北路を北上。途中で民生東路の天仁銘茶で買う。地下道には乞食が多いと思いました。ホテルで昼食。

再度出かけ、蓬莱百貨公司へ向かいます。途中で観光理髪庁の赤シャツを来た男に声をかけられる。小学校2、3年生がソーセージ見たいなのを買ってしゃぶりつつ、下校中。蓬莱百貨公司には結局行くのをやめました。デパートと言っても、台湾のデパートは少し違う。コーヒーショップ内で"La Stupenda"(恋に落ちて)と書いてあるビラを読みましたが、La Stupenda(途方もないもの)というのはサザーランドのニックネームだと思うと面白い。荷物をパック。

4月20日(水)
ぐっすり寝た。6時に起床。シャワー。外も雨だった。これは空港までバスかタクシーを拾わなければならないのかな、と思います。お粥の朝食。パンチパーマのお兄さんたち、メードが電話代、食事代の集金に来たので払う。雨だから部屋にこもり、手荷物のパッキングして日記を書きます。

これはオーストラリアから成田に向かう途中降機した旅であり。全て徒歩で歩いたのです。くたびれました。でも町全体の雰囲気は良く分かりましたし、昔日本人が住んだ家の群れ、我が家が暮らしたという家等も分かり、満足なセンチメンタル・ジャーニー(赤ん坊の時を除けば私は初めてですが)の旅を終えました。

千葉のF高


(231)ニューヨーク再訪
ここでお見せするのは、「音楽のすすめ」第2章から除いた部分です。既に25年近く経ったので書きました。(口語体の内容は手帳に残された記録に基づくものです)

Os氏から米国へ行ってみないか、と言われたのは某年3月20日の午後でした。頭が混乱してきた。前からニューヨークに戻りたいとは思っていたものの、こう突然では足が宙に浮いてしまう。結局4月10日までに出ればOKだということになり、安全のためには4月2日を出発予定日にした方が良い、ということになりました。

当然昔なじみのYYY機構を訪問地として挙げましたが、他にも幾つか訪問先を挙げて欲しいと言います。SSS課長はSXA社のTPA課の承認を得るために電話を掛け、続けてXXX所長、Ir部長の了承を口頭でとりつけた。この間僅か20分。素早いこともあるものだ。すぐにニューヨークに書簡電報(LT)を打ちました。YYY機構にはテレックスが無いし、N大学のテレックス番号も知らないからです。文案が出来た頃には既に5時を過ぎてしまい、庶務課のMo嬢は帰宅してしまったし、翌土曜日は指定休暇だといいます。困ったと危ぶみながらも、Oxx氏にLTの発信を頼みました。大丈夫かしらん。心配だから土曜日には地元近くの郵便局本局から速達航空便をも、別途出しました.

この米国行きは、LSA事業のセクレタリーをやって来たお蔭、という考え方もできます。いずれにせよ、数日後にN大学のH夫人からテレックスの返信あり。4月5日までは大学に不在だが、その後なら会えます、と言います。SSS課長はこれだけで手続きを進めてしまいましょう、という反応。YYY機構の方は後で処理するという段取り。3日遅れて、YYY機構のKe部長より国際電子郵便を受け取りました。単に
「4月に会いましょう」という短い返事でした。手続きをスムースにするためには、大雑把なアポイントメントの方がやり易いのです。

この日、旅行エージェントにパスポートを胴元のF社から受け取って貰うこと、および4月1日にトラベラーズチェックおよびドル現金を用意して貰うこと、アメリカ大使館でビザを取っておいて貰うこと、を依頼した。またSXAの会計課へ行き、小切手を受領。その足で神谷町へ直行。エージェントはTサービスですが、XAの留学も扱っていると聞きました。SXAの担当者は
XA「Oiさんの頃行っていたのですか?」と聞くから、
K「いやIaさんの時代ですよ」と答えました。
XA「そりゃ随分昔のことですね」

JALの「Cmツアー」という団体扱いで出発することになっていましたが、成田空港のカウンターに行って見ると、私を入れて3名しかおらず。私の前には男女2人連れがチェック・インしていましたが、それがお仲間ということか?実際には団体もへったくれも無い。IATAの目を眩ますための仮装かなあ。後で米国でCに値段を尋ねられた時、この件を告げたら、日本ではそんなことをやっているのか、と言われました。

機中にて
飛行機の中でも彼等2人は隣り合わせだったのですが、中央座席部で彼等は前向きに見て左側、僕は右側だったため全く交流なし。彼等は始めから終りまで喋り続けていましたが、どうもファッション業界の人らしいことが分かりました。デザイナーとプロモーターという感じ。途中で見本を取り出して点検したり、デザイン・ノートを調べたりしていたから、間違いありません。その会話は全部商売がらみで、いやでも耳に入って来ます。「Ey」というブランドを売っているらしく、「Ey」は余り売れないので対策をどうするとか、仲間の仕事ぶりがどうとか、裏話がいっぱい。2人とも30代後半から40代前半という年齢ですが、やはりファッション業界の人間臭さ丸出し。つまり普通の世界とは別の価値体系、別の生活パターンを持っている様です。女性は初めからシガレットを吸い続けでした。飛行機にでも乗らなければ、この世界の人々と長時間同席することは無いでしょうから、社会勉強のつもりで、煙が吹き寄せるのを我慢していました。もっとも私の商売の世界の人間だって、他の世界からみれば異常でしょうねえ。

右隣の男はスポーツ新聞と週刊誌を読み続けていました。機内上映映画は「Garbo Talks」。映画女優グレタ・ガルボに一度会いたいと願う瀕死の病母のため、ニューヨーク中をかけずり回って、ガルボが住んでいると思われる所を探すお話(実際、ガルボはニューヨークに住んでいる)。インチキでも良い積りでガルボまがいを会わせたところ、母親が死んだあと、それが本物のガルボだったこと(?)が分かるというストーリーです。

(ちょっとしたトラブル)
ケネディ空港に着いたら、一番安いバスでマンハッタンへ行こうと決めていました。空港で手荷物を受け取った時、スーツケースのキャスターが一つ紛失しているのに気がつき、しまったと思いました。このカバンは昨年ロンドンで買ったものですが、あの店員はキャスターに気をつけろ、と言っていたのを思い出しました。機内に預ける時は車輪を外すべし、という注意をすっかり忘れていました。全く自分のミスなのでますます不愉快になってしまう。せっかく高価なカバンだったのに、と思うと残念。

そういう気分でロビーの外に出たもので、タクシーの客引きに対してはつっけんどんになってしまいます。JALの契約サービスだから、と言ってバッジを見せて付きまとう男がいたのです。バスに乗りたい、と言ったらついて来いと言い、どんどん駐車場の方へ歩いて行くものだから、これは危ないと思い、
K「バスの乗り場は方向が違うよ。あとは自分でやるからもういい」
と断りました。中南米系みたいな男はそれでもバッジを示してわめきますが、あんなもの信用できるでしょうか。
K「僕はこの町は良く知っているんだ。マンハッタンまでは自分で行けるからもう結構」
と振り切りました。ニューヨークでは少しでも不審な人間を信用してはならぬ。実のところ、マンハッタン行きのキャリー・バスはロビーに沿って直ぐの所にありました。グランド・セントラル駅まで直行で8ドル。お客は僕を含めて2人しかいません。別の航空機会社のターミナルで、10名程度を拾って、あとは一路町中へ向かって走り出す。

ニューヨークの安普請の建て売り住宅の中をバスは走り抜けて行きます。そのうち、はっと気がつくと、右に見えるのは間違いなくフラッシング・メドウ・パークでした。あの陰気臭い池が見えます。屋内プールの建物がロケットの模型が、そして巨大な地球儀が迫り、その右側奥深く、フラッシングのアパート群が見えます。ニューヨークで最初に見たのが懐かしいフラッシングとは!気持が浮き立つというのはこういうことでしょうか。思わず笑いが込み上げて来ます。いつかこの公園を2分する陸橋の上からマンハッタンの写真を撮ったことがあります(それを思い出して帰国後にイラストに描きました)。その陸橋を今くぐっています!バスは本当はウエスト・サイドまで行きますが、途中グランド・セントラル駅前で停車するので、そこで降りることにしました。旅行カバンを出し入れして貰ったので、1ドルのチップ。

さあ、ここからタイムズ・スクエアまで歩かなければ。街並みの記憶が次々と甦ります。ここを進んで、ここで曲がって、これだけ歩けばいいんだ、とすっかり思い出しました。しかし!何と遠いんだろう。5番街を横断し、アベニュー・オブ・アメリカを横切り、そしてまだもう1ブロック。その1ブロックの何と長いこと。荷物の何と重いこと。30m刻みに荷物を持つ腕を交替して、喘ぐようにしてやっとタイムズ・スクエアへ到着。隠し様も無く、お上りさん丸出しでパラマウント・ホテルを探します。何となく、うさん臭い46丁目のコーナーを曲がってホテルに着きました。

ワクワクして到着
予想通りの安ホテルでしたが、不安を抱かせるような暗い所ではありません。修学旅行中のアメリカの片田舎の中学生の団体とか、イタリア人の団体とかの客が溢れています。アメックスが使えることを確認してチェック・イン、14442号室に収まりました。すぐに荷物を解き、衣装は全てハンガーに。荷解きが済んだところでYYY機構に電話してみようと思います。ディレクトリーを調べるとクレジット・カードでチェック・インした客か、現金をデポジットした場合しか外線のダイヤル通話は出来ないと書いてあります。アメックスでチェック・インしておいて良かったな。YYY機構のKe部長を呼び出し、これから直ぐに行っても良いか、と尋ねたらどうぞと言います。お土産を抱えて行く都合もあるので、今日は何人いるかを聞き出し、30分後に到着するだろうと予告しました。

タイムズ・スクエアから、これも懐かしい地下鉄1番線に乗ります。以前もこの駅の複雑な構造に悩まされましたが、今やすっかり方向感覚が分からなくなっていました。数分間ウロウロしてようやく1番線ホームを発見。急行が先に来ましたが、どこで鈍行に乗り換えるのか、忘れてしまったので初めから鈍行に乗車。YYY機構の真下にあるHt駅で下車、地上に出ると昔のままの風景が広がっています。強風に逆らってあるきつつ、昔H氏がこの辺りは「風のトンネル」という異名があるんだ、と言っていたのを思い出します。

1階のYYY機構の玄関を入ると、昔なじみのガードマンがテキパキと手続きをして呉れました。
「僕を覚えているか」と尋ねたら、「昔いた人だろう、もちろん知っているとも」というお答え。彼の姿も昔のままです。エレベータ・ボーイも昔のまま。彼も覚えていて呉れました。予め打ち合わせが済んでいたからかも知れません。それでも良いと思います。いや、ウソでも良い。古い顔なじみに、顔を覚えていると言われれば誰でも嬉しくなるものです。

5階の廊下を歩いていて、昔より明るくなったのに気がつきます。後で聞いたら、昔は壁が緑に塗ってありましたが、クリーム色に変えたのだそうです。ES部、AC部の各室を通り過ぎ、一番奥のRP部に近づくと、遠くからKeが右手を高く揚げて近づいて来ます。迎えに出てくれたのです。
千葉のF高
ここから「音楽のすすめ」第2章冒頭に続きます













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