「ドン・カルロ」仏語版を見聴して   2014.SEP.12(1-1)

ドン・カルロ

「ドン・カルロ」とは、ヴェルディが23番目に作曲したオペラです。この後に続くのは「アイーダ」、「オテロ」、「ファルスタッフ」で、これらはいずれ劣らぬ秀作です。そのため、これらをまとめてヴェルディ後期と称します。「ドン・カルロ」のオリジナルのテキストがフランス語で書かれているため、それはオリジナル版と呼ばれます。しかし何と言っても本場イタリアではイタリア語が受けますから、ヴェルディも依頼を受けてこのオペラのイタリア語化に取りかかりました。今日ではまるで「ドン・カルロ=イタリア語」というイメージで誤解されています。かく言う私も、イタリア語による「ドン・カルロ」なら数種類持っていますが、フランス語の「ドン・カルロ」は一つも持っていません。

「アイーダ」、「オテロ」もヴェルディが嫌々ながら書いたものであり、「ファルスタッフ」は老齢に至り、余力で書いたと思われる曲(これは私の個人的な印象)だという点を考慮すると、ヴェルディが自分の力を信じて挑戦した曲は、やはり「運命の力」、「ドン・カルロ」までではないでしょうか。あとに続くものがなければ、ヴェルディのオペラは「運命の力」のようにあちこちに散らばった旋律をかき混ぜたものや、あるいは「ドン・カルロ」みたいにやたらと長い、暗い曲の作者として、「音楽は秀逸ですけれども」という評価で終わっていたでしょう。あの「アイーダ」や「オテロ」に感じるものすごい感激にはまだあと一歩です。

さてその「ドン・カルロ」ですが、舞台は前作「運命の力」同様にスペイン。最高峰ではないが優れたオペラ、「ドン・カルロ」がどのような構造を持ち、どのように展開しているか、特にフランス語とイタリア語の使用法の違いはあるのでしょうか。イタリア語版の諸所に見られる激しいアタックがフランス語ではどうなるでしょうか。「オ・ドン・ファターレ!」という切れ込みこそ意味があって、これを甘くホンワカと表現したらがっかりですね。今年の冬にイタリア語版を舞台で見る機会がありましたが、今夏の終わりにはフランス語版の上演が東京芸術劇場でありますので、この機会にこれらを比較して聴いてみることにしました(上演したのは2014年9月6日)。

例えばヴィオレッタのような役柄をゴツゴツしたドイツ語アクセントで歌われたら聴く方は幻滅ですし、ミミのような可憐な役柄をプッ、ツッと切れるドイツ語で歌うのも幻滅です。優雅なウイーン訛りを北部ドイツ語なまりで歌うのが如何にイメージを損なうか容易に理解できます。そもそもドイツ語でも構わないイタリア・オペラ(逆もあり得ます)は、せいぜい「マクベス(ヴェルディ)」、「ノルマ(ベルリーニ)」とか「メデア(ケルビー二)」くらいしか思い当たりません、そしてこれらのオペラこそ私の最も好きなオペラだ、ということも何か関係しているのかも知れません。余その逆は想像できませんが。

このオペラ全体を通して最も魅力の乏しいヒロインはエリザベッタですが、あれが言語的な問題のせいなのか、原語たるフランス語に戻したらどうなるか、を確かめたい、というのも、テーマの一つ。これは妾たるエボーリ姫が根っからのイタリア風(スペイン風)の代表とすれば、分かりやすいのではないでしょうか。実際あの明るいエボーリ姫がフランス宮廷で暮らしているとは想像しがたいからです。やはりフランス人はスペインで言語に詰まるのでしょうか。どうしたらエリザベッタを元気づけられるのでしょうか。

5幕版なので最初に第一幕が付きます。それはフォンテンブローの森でのエリザベッタとカルロが遭遇する場面ですが、これは全体の劇進行を左右します。どっちみち分かることなので、これはカットしても良いだろうと思います。つまり4幕版で十分だろうと考え、ます。しかし語学上の違いは聴いてみないとわかりません。少なくとも先頭の和声とかその展開部とか、どうみてもフランス語では表現しにくいのでは、と思います。また合唱はどうでしょうか。合唱はつい見落としてしまいがちなのですが、特にここでは語学の選択に注意を払ってみようと思います。

そして最後の幕でエリザベッタとドン・カルロが堂々たる2重唱を組んで全体が終了するのですが、ここでふんわりと、霧の中に消えていくような音で、密やかに2人ともでデクレッシェンドしていく、という終末にしたら、さらに魅力が増すのでは、と考えています。最初の和音を覚えていますね、あれがこの消え行く和音で終わるのです。

実際に音にしてみたものは次のような印象でした。まずテンポがキビキビとして早い。それは周到な準備をしてあったようで、場の転換や人の出入りにおいてほんのちょっとの時間も有意義に利用しています。あれだけ早いテンポが全体を左右するのだから、その影響はさぞや大きいだろうと思っていたのですが(2回の小物の落下がありました)、そいうことも予定済み、と涼しい顔でした。とにかく長いオペラではこのテンポをキビキビとすることが極めて重要です。またこう書くとテンポがずっと早いのでは、と思われますが、第4幕に至るとなぜかスピードが落ちるのが分かります。とにかくこのすばらしいテンポが心地よく、それに乗って楽しみました。

歌手の歌いぶりについて述べますと、浜田理恵(以前ほかの役柄で見聴きした覚えあり)の演じる王妃エリザベートの声と歌いぶりが、少し弱いかと言うところ。それも予想したほど弱くないのです。これは最近見たばかりのカラヤンのザルツブルク版ダミーコの声が少し弱いと印象づけられていたためです。それでも最後の幕で歌う長大なアリア(世のむなしさを知る神)ではエリザベートは少し声を強くしていました。逆の例がエボーリ公女でした。エボーリはサラセンの歌ではきわめて快調に飛ばしていましたが、「呪わしい美貌よ」では少し勢いがそがれたようです。少なくともイタリア語で「オー・ドン・ファターレ!」と叫ぶ場合と、フランス語で「もやもや…んん!」と吐き出す場合の差は分かります。ここではエボーリは後者だったのですが、歌い手が自覚していなかったとは思えません。エボーリはいつも目がヴェールに重なるような格好をしていました。ここではそれほどはっきりしないのですが、エボーリが眼帯をしている演出が多いのは何故?

佐野成宏の演じたドン・カルロは当初、声がオヤと思うほど不安定で、裏声になりかけましたが、これも後半に至ると驚くほどの回復ぶり。フィリップ2世のカルロ・コロンバーラは太い声で、なるほどこういう声質の差が重要なんだなと思いました。堀内康雄演じるロドリーグはフィリップ王との違いを明らかにしていました。堀内は声がほんの少し弱いが、応用範囲の広さを感じました。何といっても候爵ですから。妻屋秀和の宗教委員長はズバリ、これぞバスという風情で成功。合唱団やソロを歌う人々は、それぞれに相応しく出入りしていました。火刑の場面はぞっとする赤い色を、パイプオルガン全体を覆うように掛けていました。

実際のドン・カルロはヴェルディが詩をつけたのと少し事情が異なり、体重の少ない病弱な体を持て余した不健康な人間だったと言われています。エリザベートとの甘い生活を夢見ていたカルロは、実情に失望していたことでしょう。とにかくこの上演は成功です。なおここで秀逸だったのは宗教裁判長、国王、そして後半のカルロ王子、前半のエボーリ姫でした。なお言葉の違いは終幕に向かうにつれ、消えてしまいました。このフランス語がイタリア語より優れている等のクダクダした印象も、結果的にそんなことは問題でなく、一口で言えば、これは優れたイタリア・オペラなんだと実感。成功の大半は指揮ぶりがキビキビしていて、テンポが早かったことにあります。やはりヴェルディでは指揮者の役割は重大です。またオーケストラは逞しく、正しくヴェルディの音楽を鳴らしていました。


千葉のF高










<<Appendix 雑記帳トップへ戻る