コジ・ファン・トウッテ 奏楽堂の音   (2014/10/04)

コジ・ファン・トウッテ

「コシ」か「コジ」か考えますと、少したじろぎます。現代では「コジ」と記すのが多いようです。少し古い世代間では「コシ」が多い。純粋な単語の正当性ではなく、それが良く通じますよ、という範囲でここでは「コジ」にしましょう。

ウイーンにあるムジーク・フェライン・ザールが実は木造建築だということはよく知られています。木造の音が素晴らしいのかどうか、何故という疑問は、簡単ではありませんが、木造建築が音響的に魅力があることに違いないと思います。何しろヴァイオリン、ストラディヴァリウスは木製品なんですし。日本では上野の東京芸術大学音楽学部の奏楽堂が木造(ただし旧奏楽堂)。かねてよりここの音を実際に耳にしてみたかったのですが、機会に恵まれず、先延ばしにしておりました。現在修理中で、再開はもう少し後。ところが、新しい方の奏楽堂なら現在も公開しています。それがモーツアルトのオペラをやるという広告を入手しましたので、旧館を忍ぶ上では最適だろうと考えました。さっそく2枚買い求め、聴きに出かけました。10月4日のマチネー。少し時間が余ったので、上野公園の噴水そばで、カキ氷類を愉しみながら時間をつぶしました。ここのヨットを浮かべたり風船を運んだりという光景から、私は真っ先にJ.バリー「ケンジントン公園のピーターパン」の舞台を思い出しました。

ムジーク・フェライン・ザールがウイーン・フィルの本拠地であることは良く知られていますが、この上野の奏楽堂(新も旧も)は東京芸大の在籍者や卒業者がメインを占めるユエに有名です。言って見れば音楽家が自立していく、手慣らし会場として有名ですが、大戦のあと色々と苦労したあげく,ようやく現在の位置に固定されたものです。そこは元々は旧東京音楽学校の舞台があったところですが、現在は閉鎖中。僅かに約200m程度しか離れていないし、どうしてそんなにこだわるのか、と言われそうですが、そこは旧奏楽堂が持つカリスマ的な名声のためでしょう。実際、そこの舞台で三浦環その他の名歌手達が歌い、また演奏していったからです。三浦環の伝記がかつて幾つも出ていて、私も2册ほど読みましたが、それも大昔の話で、私が12歳の中学生時代です、

中学の図書室にはもっと国際的に有名だったジェラルディン・ファーラーや、エンリコ・カルーソーなどの項目を含む本がありましたが、実際に私が中学三年生で読んだのは三浦の項目のみ。そして大学に入ってから再び、図書館にファーラーやカルーソーの伝記があったのを見つけ、読み漁った覚えがあります。しかし「ベルカントとは何か」と言う最も根源的な意味を理解せず、単に超高音を出せて、時折声を震わせることの出来る歌手、くらいの認識しかありませんでしたから時間がかかりました。もっと普通科目や語学の勉強をすれば良いものを、これこそが一般教養と割り切って、私はせっせと図書館に通った次第。

本日の出し物たる「コジ・ファン・トウッテ」がどんな歌われ方をするのか、気になりました。学生ならイタリア語でも構わないのですが、出来れば流暢なイタリア語で聴きたいもの。そもそも「コジ」というオペラは全体として少々長過ぎるような気がします。それは登場人物にそれぞれ独立したソロを歌わせているからではないか、と思います。モーツアルトの作品に「長過ぎる」と言うのは少々おこがましい感じもありますが、モーツアルトだって作品次第だろう、というのが私の考えです。確かに「ドン・ジョヴァンニ」、「フィガロの結婚」、「魔笛」の3曲はトテツもなく素晴らしい。どれをとっても最上品です。モーツアルトだけでなく、他のオペラ全てを捨てても残しておきたい名曲です(「トリスタン(ワーグナー)」や「ノルマ(ベルリーニ)」も捨てがたいけれど)。

かつて有名な評論家○氏が、モーツアルトから3つ選ぶなら、「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」は選ぶけれど「フィガロの結婚」は外す、あの曲は未整理な所があるからだ、と申されました。代わりに「コジ」を入れられたのです。絶句しました。「フィガロ」はあらゆるオペラの中でも取り分け光輝く曲だと信じていたからです。ショックでしたが、考えてみれば「フィガロ」はそれほど大きな期待を背負った曲なんだ、という意味で○氏はそう言われたのかも知れないと思いました。最後は自分で信じていればそれが正しい、ということをこれで確信しました。私が色々な音楽に接した結果、得た貴重な結論です。それは実は他のことでも言えます。つまり真空管か半導体かという絶えない議論についても、今は私の意見はこうです、と言えます。今のところ、シャリシャリした高音ほど耳障りな音は無いと思っています。それを私は歳と共に強く感じるようになりました。

その「コジ」ですが、姉妹が野外で海風を浴びながら午後を愉しむ光景は素晴らしい。「コジ」の音楽をゆったりと聴くことができます。姉妹の育ちの良さと、その運命を察する絶妙な場です。どんなに素晴らしい環境も永遠に続くことはあり得ないのです。だからこそ、音楽の一節一節に込められた「今」を愉しまなければ勿体ないと考える次第。

キャストの配置は、高関健の指揮、粟国淳の演出、徳山奈奈のフィオルディリージ、吉田貞実のドラベルラ、伊藤純のドン・アルフォンソ、松原みなみのデスピーナ、湯澤直幹のグリエルモ、松原陸のフェランドという配役。オーケストラは芸大管弦楽研究部、合唱は芸大音楽学部声楽科のオペラ履習生、またチェンバロがありましたが、それは我々目前で鳴っていました。チェンバロ奏者は弾くのがうれしくてたまらない、という風情でした。実際この陣容は大変なものだと思いました。芸大生たちも自分たちがオペラを守っているんだ、という覚悟があります。やはり芸大だから可能なのでしょう。色々な陣容がズラッと並んだところは写真が欲しいくらいです。

序曲が鳴りますと、静かな低音部が楽しい時を予告。実際この時、聴ける低音ほどオーケストラの力量を吟味できるものはありません。本当に純粋に音だけの世界。オーディオで作れるとは思えないのです。そして後半ではチェンバロが鳴るのでそれも素晴らしい。どうしてこの重要な役割を宣伝しないのでしょう。2回ほど合唱だけが右側の溜まりから聴こえましたが、あれは薄い建築構造物で遮られた音です。それ故、私はまるでエレキ技術を駆使した人工の音だろうと思いましたが、同席した家内は「生よ!」と言います。バスは霧が掛かったような声でしたが、なんとか開幕。時間があとになるほど熱が入ります。よくぞここまで長文プロットをイタリア語で覚えたものよ、と誉め称えたいところ。

2人の男達は熱演ぶりを見せますが、随分練習したに違いありません。比較的年配風のグリエルモは尤もらしく、その年下らしいフェランドの高音と巧く対比がついています。実際この「コジ・ファン・トウッテ」のようなアンサンブル・オペラでは対比がしっかり付く事が必須です。その点、女性陣たるフィオルディリージとドラベルラの方は余り差がついておらず、時々筋の進行からみて、どちらが歌っているかを考えて納得しました。その点、デスピーナの声はリンとしており、どんな高音でも自在でしたから、これは拾いものだと思いました。いままでデスピーナの声で価値判断をしようとは思わなかったのですが、この公演を聴いてデスピーナの重要さを認識しました。ここでは演出上の配慮から、最後の場面でドン・アルフォンソと同格な扱いをしていましたが、あれは尤もでした。男性陣、特にフェランドは顔の表情がよく見えるので、その表情が踊るのに苦笑しました。

女性陣だって良い場面がいくつもあり、特に第2幕では平行に歌う場面は、本当にうっとりしました。これは声が似ている、という事を欠点のように言った上記と逆で、似ているからこそ良いんだと思った次第。デスピーナは舞台ほど動かなくても、言いたい事は伝えられるかも知れません。合唱は良いのですが、ふと考えると、まるでマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の合唱みたいな扮装だな、と思いました。そう思えば思える程なのです。

満足しました。決してオペラ予備軍としてではなく、今日の演技と声に満足したのです。もし今度「フィガロの結婚」をやってくれるなら、また聴きに来たいと思います。それにしても東京にこのようなオペラ団体があるんですね。それを誇りに思います。

千葉のF高










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