モノローグ(264)〜(265) ノルマの歌唱法   (2015.1.15)

(264) バルトリの「ノルマ」新録音

20年ぐらい前に出てきたイタリアのメゾ・ソプラノ、チェチーリアバルトリ登場は目を奪う勢いでした。私が最初に聴いた(観た)のは「セヴィリアの理髪師」のロジーナ役でしたから、ほとんどバルトリのデビューに近いと思います。その声のコントロールの巧さ、高音の巧みさ等は聴くたびに感心します。ただ当時から言われていたのは、彼女本当は声量が小さいのでは、ということです。バルトリの場合はシュヴェチンゲン音楽祭の舞台が小さいゆえに、精妙な歌い方が可能だったのかも。なるほど。メットに登場したのもズッと後になりましたし、それも主役格(デスピーナを歌った)であっても主役ではなかったようですし。

バルトリはバスのサミュエル・レイミーと一緒に東京で「Mostlyモーツアルト」演奏会に出演するために来日しました。その切符を私は家内と一緒に持っていました。そして当日、忘れ得もしない地下鉄東西線の中(外はもの凄い嵐)で、「もうこれ以上の移動は不可能だから、残念ながら今日はあきらめよう」、と帰宅せざるを得ませんでした。とにかくも惜しかったですね。日本ではやや過小評価のレイミーと宇宙に飛び立つようなバルトリ!

後々になるほど、彼女の活躍は目を見張るようになりましたが、基本的に彼女はロッシーニやモーツアルトの歌手で、他の作曲家の歌は避けている、と言われても仕方がなかったと思います。実際スカラ座等の大劇場には出ていなかったので、聴くためには莫大な努力を要しました。最近では身が太くなって、イタリア人特有の体形を得たようですが、どうにも気になるのです。彼女の音程は申し分ないし、コロラトウーラの技術は依然として元気ですが、にも関わらず、彼女の「歌う」心は失われつつあるのでは、と私は危ぶんでいます。危ぶむと言ってもどこにも根拠はありません。比較的最近のビデオ撮りしたものを観たことが在るのですが、大股を広げた姿を見せられ、ため息しか出ないのが実情です。

ここでアダルジーザを演じるスミ・ジョーが目新しい。アダルジーザの役柄は元々ソプラノが演じるべきところ、実際にはメゾ・ソプラノが歌うことが多い。ジョーがどこかに録音を残して欲しいな、と思っていたら、この盤の録音がアナウンスされたのです。それも昨年です。そしてバルトリとジョーを比較すると、ジョーの方が普通のマトモというかフツ—です。その代わり両者がトリルの競争を始めるとバルトりの方が技術的に抜群に巧い。ジョーは一生懸命歌っているのですが、それにバルトリが全く対応していない。ジョーが巧くまとめようとする努力を、バルトリは自分の信じる芸術的表現を徹底しようとしますが、それがジョーの了解を得ていない。平たく言えば、バルトリの「わがまま」です。なお、私がバルトリを初めて聴いたのは約20年前、ジョーのコンサートを初めてナマで聴いたのが約2年前です。ジョーは世間受けに問題があるようで、メジャーの録音会社とも契約していないようです。でもここでアダルジーザを印象つけることができれば、それなりの良いこともあるでしょう。聴かず嫌いなんて損ですよ。

あれこれあって、私はそのバルトリとジョーの共演した「ノルマ」の全曲盤を入手しました。結論を先に言えば、これが「ノルマ」を代表する演奏とは考えません。私の印象ではこの「ノルマ」は古楽器を使用した、かなりクセのある音楽の作りによる「ノルマ」であって、それがこの曲を代表するものでは無いということです。CDに付属する解説書には熱心にバルトリの歌い方の方が理にかなうものである、と繰り返し強調していますが、実は私は古楽器に余同情を持っていません。実際、このCDを聴いていると、叩き出すような和音が出てきますが、それは古楽器を使ったため、優雅にしたくてもそれが出来ないのです。おまけにこの指揮者はかなり任意(私にはそう取れます)にテンポを早めたりするので、それがいかなる意味を持つのか考えているうちに、音楽は次節に進んでしまうのです。

この「ノルマ」は2011-2013年録音の最新盤であり、発売以前のニュースで知っていました。ジョヴァン二・アントニーニ指揮のシンティッラ管弦楽団、ノルマはチェチーリア・バルトリ(Sp)、アダルジーザはスミ・ジョー(Sp)、ポリオーネはジョン・オズボーン(Tn)。ジョン・オズボーンのポリオーネ役は頼りの無い声で、がっかりしました。アノような声はロッシーニ歌いの範疇に入りますが、ポリオーネには相応しくない。

そしてバルトリについても言うなら、高音が出るということを証明しようとして、自らの才能や素材をすりつぶすのは愚かしいことでは、と思います。本来無いものを出すのだから、声は飲み込むような感じで出しています。それが故に、高音が欲しい時もその高音を十分な時間持ちこたえていないのです、一瞬だけ出しても、それを維持できない。第2幕に気づいたことですが、あのトリルに満ちた空間はそのようなトリック空間だったと私は判断します。どこでも声を飲み込むように出すため、そこに感情を上手く表わせないのです。どうしてあんなに声を飲み込むように出すのか理解できません。まるで恐喝するような声ですよ。そんなにソプラノが良いのかなあ。出るかどうかと言うより、いかに楽に出せるかで競うほうが良いのではありませんか。各フレーズの最後は慣習的に高音を出すものですが、それらは全てカットされています。これは趣味の問題ですから好きずきだと思います(私自身は超高音があった方がカタルシスを得られると思っています)。それにアノ切り口はまるでいつも怒られているような感じです。それほど残された時間は長くないのです。現在バルトリは48歳、ジョーは52歳です。以前にベルリーニ「夢遊病の女」が出た時、私は片目でその実物の展示を眺めながら、結局見送りました。その値段の問題ではなく、何故メゾ・ソプラノのバルトリが、なぜ代表的ソプラノの曲たる「夢遊病の女」を歌ったのかを、考えたためです。まだ迷っています。

バルトリの「ノルマ」録音を聴いて私が正直に感じたところ、彼女の声に少し傷が出てきているのではないかという事です。それは楽章から楽章へ移る時に感じますし、そもそも彼女があんなに、行き過ぎと思われる程、トリルを効かせてころころと喉を回すところからもそう思うのです。特に第1幕後半のアダルジーザとの2重唱のように、まるで全編転がっているような箇所は、あれだけ回れば「スポーツ的快感」は分かりますが、その趣味にやや疑問符を付けたくなります。それにトリルの見事さの反面、声自体の美しさを減じているような気がしてなりません。他方、ジョーの方はそれだけの技術が無いために(無くて良かった)と免罪されるかも知れません。しかしこの録音はやはりあってよかったと思います。色々な考察や試みを実際に音に出してみた興味深い機会でした。私もこれから時々は聴いてみる事にします。

(265)カラスの場合

バルトリの「ノルマ」を論じましたが、当然それをカラスのそれと比べたくなるでしょう。カラスの方が、より若くしてデビューし、より早く引退しました。両者を比べるとやはり違います。どう違うかは、実際に聴き比べれば瞭然です。つまりカラスは音の強弱を表情付けの一部として採用しているのです。バルトリは音の強弱を無視しています。これは誤解を招く表現ですが、バリトリが音の強弱を出そうとするとトリルの技術が死んでしまうのです、実際、何カ所かで強弱に表情を付けようとしていますが、それはあらーと絶句してしまうような歌の出来映えでした。音そのものを大切にしてほしいと思うのはそのような場面です。カラスが長い息を利用して朗々と歌い上げる低音部を、バルトリはあっという間に通り過ぎようとしています。だからと言って、バルトリが技術屋だと思ってはいけません。あのトリルは誰でもできるものではありません。あくまでバルトリはバルトリ。

千葉のF高












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