ワルキューレのCD録音

モノローグ(280) 「ワルキューレ」 June 1,2016  

ワーグナーの「ワルキューレ」を録音年代別に整理したものは下記の通り。いずれも私の手元にあり、ここではそれらを再生して、聴いてみた記録です。基本的にCDの比較であり、一部はレーザーディスクからのものを含みます。

(1)「ワルキューレ(第1幕のみ)」 1935年録音

ジークリンデ ロッテ・レーマン
ジークムント ラウリッツ・メルヒオール
フンディング エマニュエル・リスト
ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル

メルヒールのジークムントは声が不純物を含み、英雄的、かつ野性的で素晴らしい。またレーマンのジークリンデは、これこそ比類のないものです。昼間、戦った男が、夜に転がり込んだ家は、何と敵方の家でした。戦時のたしなみとして、すぐに追い出すことはせず、一晩の宿を貸す。こういう所はまるで日本の侍みたいです。それを彩るワルターの管弦楽のすばらしさ。これの全曲盤の録音の機会を奪われたのは返す返す残念です。それも戦争のため。この録音の3年後、ナチスはウイーンに進駐しました。SP録音のため制約がありますが、それを考慮すれば十全です。特に第1幕終幕部にむけてあおり立てるような辺り、快適なテンポと情熱的な歌は、素晴らしいものです。まさに全身から絞りだすような歌を聴いていると、ジークリンデはこうでなくては、と思います。メルヒオールはどこをとってもお手本になります。それにしてもSPの時代にワーグナーの全曲録音を計画するとはお見事です。

 

(2)「ワルキューレ(第2幕のみ)」 1936年実況録音 

ブリュンヒルデ キルステン・フラグスタート
ジークリンデ ロッテ・レーマン
ジークムント ラウリッツ・メルヒオール
フンディング エマニュエル・リスト
ヴォータン フリートリッヒ・ショル
フリッカ キャサリン・マイスル

フリッツ・ライナー指揮サンフランシスコ歌劇場管 1936年11月13日

1936年という年を考えると、恐らくワイヤー録音だろうと思いますが、とにかくこういうものが存在します。実況録音という難しいところで記録を残して呉れました。フラグスタートはまだ声が若く、ショルのヴォータンが響かせるもの凄い低音(これはバスの声)の方に注意が行きます。ブリュンヒルデとしての評価を決める第2幕冒頭の「ホ・ヨ・ト・ホ」の叫び声を、フラグスタートは最後の「ホ」をしゃくり上げる形で歌っています。その歌い方なら声が出易いものと思います(ヴァルナイも同様にして同じ場面を切り抜けています)。録音特性は「限りなく悪い」ため、ハッキリとは言えませんが、フラグスタートの声は確かに若々しい。それよりも聴きものなのは、レーマンのジークリンデです。その声と表現は間違いなく最もロマンティックなもの。最後の音までその点は保証できます。これで第3幕も聴いてみたいのが人情ですが、私が持っているのは第2幕だけ。

この1936年録音は凄まじい勢いで開始されます。このヴォータンのお目見えする場面はあまり上手くいっていません。というのはフリードリッヒ・ショルの高音は酷く見劣りするためです。ところがフラグスタートに交代しますと、これは十分鑑賞に耐えます。CD化する際のコツ等、こうも結果が影響されるかを示しています。フラグスタートが素晴らしいため、その耳でフリッカ役のキャサリン・マイスルを聴くと、これは見劣りします。低音部がもう少し出て欲しい。ジークリンデを歌うロッテ・レーマンは極めて意味を深く捉え、意味付けしながら歌っています。そういう事に無頓着な聴き手だったらレーマンの声は時として汚く聴こえます。でも注意深く聴いて下さい。第2幕の幕切れはその成果が出ています。ジークムントは時折年寄り臭く聴こえますが、音楽に乗った時は素晴らしい声を披露しています。これを表現するのは「演唱」という言葉でしょう。たしかにこのフリッツ・ライナーの指揮ぶりは、オーケストラを煽り立てるみたいで、中々だと思います。ただ、最後の部分でアナウンサーの声が聞えて切れているのが残念です。しかし良く1936年にこれを不完全にせよ、録音してくれました。

 

(3)「ワルキューレ(第一幕のみ)」 1941年2月録音 

ジークリンデ ヘレン・トラウベル
ジークムント ラウリッツ・メルヒオール
   

アルトウーロ・トスカニーニ指揮NBC響

驚いた。どこを取っても、決して古くありません。キビキビしたテンポは聴き手を引きつけて離さないのです。通常、トスカニーニといえば猛烈なテンポの早さが耳をよぎりますが、ここでは決してそうでないのです。トロウベルは高音が自由で、ポンポン出すので、心地良いと言うか、おそろしや、という感じ。但し高音の味わい自体は薄い気がします。オーケストラはテンポが速い所も指揮者に引っ張られて付いて行っているのが良くわかります。しかもギシギシと軋むようなボウイングです。力一杯弦楽器を弾かないと指揮者に怒られそう。1941年2月の録音とありますから、この時はまだフラグスタートは米国内にいたものと考えられます。彼女は4月にリスボン経由でノルウェーに戻りました。このことはトスカニーニの神経を逆なでてしまい、フラグスタートの声の黄金期は失われました。

 

(4)「ワルキューレ」 1941年12月録音  

ジークリンデ アストリード・ヴァルナイ
ジークムント ラウリッツ・メルヒオール
フンディング エマニュエル・リスト
ブリュンヒルデ ヘレン・トロウベル
フリッカ ケルステン・トルボルイ
ヴォータン フリードリッヒ・ショル

エーリッヒ・ラインスドルフ指揮メット歌劇場管

1941年12月6日の晩(つまり太平洋戦争勃発の2日前。時差を考えると1日前)、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場ではワーグナー「ワルキューレ」をやっていました。あの戦争の際、プッチーニ「蝶々夫人」は公然たる場所では上演されなかったのですが、 「ワルキューレ」の方はやっていました。エーリッヒ・ラインスドルフの指揮です。テンポがやや遅い感じです。ただし、所々猛烈なスピードで歌手を振り回しているような箇所があります。まるで大戦がヒタヒタと迫っているのに急がなくちゃ、という感じです。実際あそこでは歌手たちは必死になって指揮棒に付いて行こうとしているのが伺えます。メルヒオールは、ワルター盤と同一ですが、こっちの方がWalse!Walse!の叫びをオリンピック競争並みに伸ばしています。ヴァルナイはこの時若干23歳。このジークリンデが初舞台でした。それもロッテ・レーマンの代役でした。突然の代役が新星の誕生になったわけ。低い音は出ていると思いますが、十分ではありません。なにか緊張しているような声で、吃音みたいにボツボツ切れる事を無視すれば、後の時代にみられるような遅れがちの発声ではありません。当初、どう聴いたら良いのか迷うくらい音が悪かったのですが、やがてスピードが上がり、合わせてトロウベルのソプラノが自由で、思い切りが良く、聴き手はその速さに喘ぎながらも付いて行くことに。畳み込むようなドイツ語です。これを聴くのは小気味が良い。途中でヴァルナイのジークリンデが異質の音色を持っていることに気がつきました。ラインスドルフはこのテンポを押し通した点、それなりに価値があると思います。

第2幕冒頭の有名な雄叫び「ホ・ヨ・ト・ホ」をトロウベルは問題なく乗り切ります。彼女は魅了的なソプラノだと思うし、特にその低音域の響きは素晴らしいが、問題はショルだったと思います。連続的な低音の続く箇所では良いのですが、Bから上の音が全くダメなのです。トルボルイはワルターの「大地の歌」の録音でソロを担当していますが、ここでは喉が苦しそうな上、キャンキャンと響くのです。楽劇「ワルキューレ」の悲劇は、ヴォータンがフリッカの言う事は聞くが、ブリュンヒルデは実情を知らない、ということに原因があったと思うのです。しかしフリッカはそれを見逃さず、ワルキューレもジークムントを助けないことです、とヴォータンに念を押すのです。いやはや女性のこのしつこさはこういう場合、如何にもなりません。思い通りに行かない主神は如何にもなりません。そして現われるジークリンデは半狂乱状態。ジークムントはなだめ、休ませるのみ。そして話は悲劇の底に落ちて行くのです。快刀ノートウングに与えられていた無双の力も、抜き取られていたからです。ここでジークムントと主神の間に取り交わされていた約束は、フリッカは全く問題にしません。フリッカにとって、ジークリンデはフンディングの妻であり、それ以外の何でもなかったのです。このフリッカの性格はギリシャ神話におけるヘラと似ています。フリッカを歌うケルステン・トルボルイの歌は堂々たるものでした。全体を見る能力に欠けた女神は、ここで勝ちましたが、結果的に神々の世界を崩壊させたのです。ヴァルナイは、ジークリンデが一人目をさましてうろたえる場面で、真に迫る演唱を見せます。

他方、ブリュンヒルデを歌うトロウベルは声が有りすぎて、節制が不足気味ではないでしょうか。彼女はナイトクラブでの仕事が増え、それを好まないジョンソン支配人に疎まれ、メットをクビになってしまいます。またショルの声は小池朝雄の「パパは何でもしっている」みたいな声だと思っていたら、モーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」のタイトルロールみたい、いやヴェルディ「運命の力」のグアルディアーノ神父の声か、いや西部のならず者の声かもしれないとコロコロ印象が変わります。ずっと悩んでいましたが、最終的に私は×印を付けました。ショルはこの時53歳程度だったと思いますが、ヴォータンに取って大切な言葉「この槍を恐れるものはこの炎を超えるな」という台詞、これを含め全く声がでていません。指揮者のテンポは一般に速いが、ワルキューレ達がヴォータンから退散する場面では特にハチャメチャに速い。オーケストラもやっとこさ音を出している様子、やり過ぎだろうと思います。

 

(5)「ワルキューレ」 1946年メット実況  

ジークリンデ アストリード・ヴァルナイ
ジークムント ラウリッツ・メルヒオール
フンディング  エマヌエル・リスト
ブリュンヒルデ

ヘレン・トラウベル

フリッカ     ケルステン・トラウベル
ヴォータン    ジョエル・ベルグルンド

パウル・ブライサッハ指揮 メット管

オリジナルがアセテート盤だという記載があります。これを必死になって聴き分けましたが、音が極めて貧弱です。序曲や最初の場面では、低音が弱く、もの凄くテンポが速いのです。メルヒオールはまるで30歳のごとく聴こえます。ヴァルナイも同様です。これはカラヤン盤のグアンドラ・ヤノヴィッツと両極端をなす声だなと思いました。ヤノヴィッツの透明感のある、しかし性格のハッキリしないジークリンデと、ここヴァルナイの凄みのある、性格のハッキリしたジークリンデのどっちが好きか、ということが問われます。リストのフンディングは低い音域を十分に表現しています。管楽器のプフォープフォーという音は聴こえますが、太鼓は殆ど聴こえません。風の音は最もハッキリ聴こえますが、どうしてこの古い時代に風の音を入れるのかは分かりません。繰り返しますが、この音の悪いCDでは細かい比較は無理です。重要な第3場では、ますます音の悪さが浮かび上がります。テンポは速く、歌手達もその速さに振り回されています。しかし聴いているうちについ、その問題を忘れてしまうことを白状します。第1幕後半は、この曲の華ですから、テンポや、歌手の年齢など色々と文句を言いたくなりますが、上記の理由により無視できるかも知れません。

第2幕にはいると、再びメチャメチャに速いテンポに悩まされます。トルボルイはしゃくり上げる形で声を出し、それは実演舞台では効果があったかも知れませんが、ここで実際に聴こえるのは貧弱な声(録音のせい!)で、ややうるさい印象があります。トロウベルは大戦を挟んで約4年経って、少しキイ音が下がったみたいです。あわせてメルヒオールも急に年を取った感じです。何となく40歳代の中年みたいな声。フンディングが迫っていることを表してか、犬の遠吠えみたいな擬音が聴こえます。また時間を節約するためか、どうも途中で抜けたところが有るみたい。ここでは元々80分程度ある第2幕をCD1枚に納めてあります。ブルクムントのヴォータンは声は、とにかくもっと深い表現が欲しいと思いますが、それも余りの録音の悪さが利いているのかも知れません。

第3幕には有名なワルキューレの騎行がありますが、評価は困難。それでも分かったのは、ヴォータンは相当年の行った声だと言う事、そしてブリュンヒルデは必死になってヴォータンの心を動かそうとしている点です。時折声が急に膜が取れたように良く響き渡りますが、そういう録音機器の好調さは長く続きません。テクノロジーはやはり大切です。ヴォータンの告別の場面も音が悪く評価しがたい。あえぎ、喘ぎながら、ようやく終幕までたどり着いたという印象。

 

(6)「ワルキューレ」 1950年実況録音(スカラ座) 
ジークリンデ

ヒルデ・コネツイ二

ジークムント ギュンター・トレプトウ
フンディング  ルートヴィヒ・ウエーバー
ブリュンヒルデ キルステン・フラグスタート
フリッカ エリザベート・ヘンゲン
ヴォータン フェルディナント・フランツ

ウイルヘルム・フルトヴェングラー指揮スカラ座管

名高い、スカラ座版の「指輪」の実況です。トレプトウの歌い方がやや気になります。乱暴な感じがするし、これは元気で良いのだ、と思える箇所もあります。複雑。結局元気なヒッピーの歌だという結論に至りました。ウエーバーのフンディングは全編余り良く有りません。フルトヴェングラーもよくこれでOKを出したと思います。全体の空気は重苦しい感じ。しかし実況盤になれてくると、さして邪魔になりません。聴き手としての私はフルトヴェングラーに脱帽という他なく、ひたすら魅力を感じました。どの場面でもそう!その通り、と間の手を入れたくなります。そして終曲部ではオーケストラを駆り立てて追い込んで行く!このアッチェレランドは素晴らしい。声が出ないというのはこういう事を指すものでしょう。ヒルデ・コネツイ二のジークリンデとギュンター・トレプトウのコンビはやや苦笑させます。トレプトウはなにか投げ出すような歌い方をするし(ボーン、ボーンと言う感じ。おまけにテノールらしくない声。音の悪さから、それに深入りしないようにしました)、コネツイニは邪魔しない程度の出来映えでした。とにかく戦後すぐのスカラ座です。フルトヴェングラーはレコード録音に疑念を持っていたそうですが、ここでの記録はレコード録音のためではありません。

そして第3 幕ですが、何かオーケストラに蓋をして、その中でやっているような音質です(私のはウラニア盤)。テンポが遅いし、フラグスタートの声も当初はどうかしたのではないか、と思ってしまいます。それくらいくすんだ音色です。それが「誰もあなた方を助けようとしない。一人で産まなければなりません」とジークリンデに告げる辺りで、突然音がハッキリして来ます。やはり音も大事ダナと思った瞬間。第2幕でフルトヴェングラーのテンポが案外速い。そして感心したのは、ヘンゲンの歌うフリッカでした。歌い出す性格もこの場にピッタリ。フランツは低音が得意だということは以前から分かっていましたが、フリッカにやり込められて、「良いとも。そうする!」と叩き付けるように言う場面で、ハッとしたのです。これで世界は破滅だ、と嘆く(Der traurigste bin Ich von allen, Das Ende!)ところ。ヴォータンほど世界の運命を正しく予測できた者は居なかったのです。フラグスタートは娘らしい感じをよく表しています。なお、「ホ・ヨ・ト・ホ」の場面ではこのウラニア盤では拍手は聞こえませんでした。

ジークムントの対話の場面はじっくりと聴きました。フラグスタートの声は神の娘のようでしたし、実に威厳のある声でした。トレプトウのジークムントは精一杯の努力でこれに答えますが、どうしても助かりそうもない、と観念した時、「それならこのノートウング(太刀)は自分たちの命を奪え!と叫ぶのをブリュンヒルデが必死に止める場面、ここの緊迫感は素晴らしい。又フンディングの声が近づいてくる直前、ジークムントは優しくジークリンデに別れを告げるのだが、その時思い切り声をセーブしており、聴く者をシミジミとさせます。コネツイニがひとり、目が覚めて半狂乱状態になる場面も印象的。ヴォータンがフンディングに向かって「フリッカの所へ行って、自分がどうしたか告げたら良い」と憎々しげに言う場面、「Geh Knecht!」の言葉、それに続くブリュンヒルデに対する怒りの凄まじさ!やはりフルトヴェングラーの指揮でした。

第3幕ではオーケストラに注文があります。ヴォータンが槍を地面に突き立てて禁制を宣言する場面では、このオーケストラは何をやっているんだろう、と思ってしまいます。音がバラバラにずれ、勝手に演奏している箇所があります。変わりに素晴らしかったのはフラグスタートの声です。この1950年という、彼女のいわば最後の年に聴かせてくれたことに感謝しなければなりません。どこにいても、何を演じても、その声は近付き難い神々しさがあります。それも「愚かな娘」の声でした。フランツのヴォータンは、ある場所では良く、別の場所ではまずく響きます。まるで叔父が姪のことを口にするみたいで、決して父親の言葉ではなかったのです。そのような箇所ではフランツのヴォータンはやや品下って聴こえます。

 

(7)「ワルキューレ第3幕のみ」 1951年実況 EMI原盤  
ジークリンデ  

レオニー・リザネック

ブリュンヒルデ

アストリード・ヴァルナイ

フリッカ     エリザベート・ヘンゲン
ヴォータン   

ジークルド・ピョルリンク

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 バイロイト管

カラヤンはこの年、「ニーベルングの指輪」の録音をしていますが、それが商業用にリリースされたのは、この「ワルキューレ」第3幕のみでした。カラヤンは大きな話題になりましたが、実際この「ワルキューレ」は颯爽としています。音は鮮明で、ブリュンヒルデの声も次第にはっきりして来ますが、当初は曖昧でした。これはブリュンヒルデが舞台を駆け巡っていたからだろうと思います。EMI録音チームはそういう点の処理が甘かったのかな、と思っています。後にビルギット・ニルソンが書いているよう「デッカ・ボーイズ」はEMIには存在しなかったと聞きます。他方デッカには若いジョン・カルショウを始め、ゴードン・パリー、エリック・スミス、クリストファー・レイバーンという強者が揃っていました。右に行ったり、奥に引っ込んだりするから、音が聴きづらいものになります。その点ジークリンデはただ一人動かないからその声は良く捉えられていますし、ブリュンヒルデと素晴らしい音色のコントラストをなしています。ここまでの3点の比較でも、ジークリンデは出色の出来映えです。しかし、レオニー・レズニックはこの後、何年間もバイロイトに呼ばれてはいません。もう一方のヴァルナイは連続17年間、バイロイトに君臨しました。

 

(8)「ワルキューレ」 1953年録音  
ジークリンデ  

レジーナ・レズニック

ジークムント   ラモン・ヴィナイ
フンディング  ヨゼフ・グラインドル
ブリュンヒルデ    アストリード・ヴァルナイ
フリッカ   イーラ・マラニューク
ヴォータン   ハンス・ホッター
ジークフリート  ウオルフガング・ヴィントガセン

クレメンス・クラウス指揮 バイロイト管

クナッパーツブッシュとクラウスが喧嘩した場です。特にヴィナイ、レズニック、グラインドルのトリオは気に入りました。指揮者は無駄な音は一切出しません。ジークムントの動きは激しいということが、足音から良く分かりますが、その声は少々乱暴さを備えた英雄的なもので、若さが伝わって来ます。よくジークムントが年取ったおじいさんみたいな声で歌われるのを知っていますが、あれはまずい。ヴィナイのは合格です。ジークリンデはよく考えた演唱であり、隅々まで神経が行き届いたものでした。フンディングは声が大きい上に、その存在感はシカと受け止めました。そして双子の兄妹が互いにじっと相手を見据え、ついに禁断の恋に落ちて行くのがシッカリ聴こえました。これをあからさまに書いたのは、ラインスドルフなどでは、これが全く感じられなかったため。妙な例えですが、レズニックはまるで大月みやこみたいです。その表現はここはかく有るべし、かく有らねばならぬ、というほどですが、残念ながら彼女はここでメゾへ転籍してしまったのです。ヴィナイは元々バリトンでしたが、その低い声はやや若々しさが欠けているかも知れません。猛烈にはやいテンポで、既定より1時間早く終了してしまいました。クラウスはそういう指揮者ですが、私は彼が好きです。1953年になると、どんどん音が良くなって行くのが分かります。ヴァルナイの声は中心にあることがはっきりし、他のワルキューレ達を圧倒しています。その声のトップは固く、クリスタルのような透明感のある響きではなく、もっと硬質の鋼鉄の音です。またブリュンヒルデが畳み込むように歌う箇所のドイツ語は、素晴らしくイキイキと響きます。ヴァルナイの声は1951年のカラヤン盤と比しても進歩しているのがハッキリ分かります。そして楽しめるワルキューレだと思いました。そしてここの聴き物は、レジーナ・レズニックの声でした。Rette mich Kuhne!(勇気のある皆さん、助けて下さい)の声は悲鳴のように鋭く強い。その代わり、最後のセリフDich segnet Sieglindes Weh!(私の陣痛が祝福しますように)という箇所で、ふっと声が弱くなっています。

ヴァルナイは「ホ・ヨ・ト・ホ」を最後の音をきゅっと絞り出す方法で出しています。努力は分かるのですが、メードルほどに努力したようには聴こえません。ホッターは素晴らしいが、「破滅だ」と嘆く場面ではオーケストラが弱いと思いますが、これは指揮者クラウスのせい?どうしたんだろう?マラニュークが堂々としている点は良いと思います。ヴォータンがフリッカに向かい、「誓う!」と吐き捨てるように言う場面では、声を潜めている。これはヴォータンとしては屈辱的だったのです。フリッカは色々と要求を出して行きますが、そのうちノートウング(剣)の件を持ち出した時は、ヴォータンはギョッとしたような声を上げます。あれまで取り上げよと言うのか?ここでホッターの声は百面相です。フリッカは図に乗ってますます威丈高になりますが、マラニュウクはそれを十分に表します。デッカ社が「ラインの黄金」を録音しようとした時、マラニュークをフリッカ役でなく、フロースヒルデに割り振ったのです。マラニュークは、自分はフリッカとして経験を積んでいるのに、と抗議したところ、フリッカ役は実は目下フラグスタートが引き受けるかどうかを考慮中だからと説明しました。それに対し、フラグスタートと一緒に録音できるのは光栄なことだから、是非どんな小さな役でも欲しい、と逆に頼み込まれた、というエピソードが残っています。最後にヴォータンがヤケになる場面で、オーケストラから京劇のドラみたいな響きが少し聴こえます。神々の危機を救える男として、神々の意を継ぎ、表向き神々とは独立した男が必要なのです。そこでヴォータンはウエルズング族を創造し、その一人にジークムントは選ばれたのですが、フリッカの目にはそういうマヤカシ(ジークムントは独立した男だが、実は神々の意思通りに動く、という設計)は見え見えだったのです。ヴォータンは「Das Ende!(おしまいだ)」と吐き捨てるように言います。この場面ほど心に響く場面はありません。それを伝える者としてホッターほど優れた役者は他にいません。クラウス盤でヴァルナイのブリュンヒルデはカラヤン盤と比すと、時として声を潜め、心の弱さを表に出しているのがわかります。ジークムントが死んだあと、ジークリンデを逃がし「いいじゃないの、お父さん。私は父さんのためにやったの」と言っているのが実に良くわかります。最後に高揚する場面ではもう少しコントラストが付いて(つまりこの箇所では特に強く聴こえるように)いれば、申し分ありません。ヴォータンが怒ったのはブリュンヒルデに対するより、自分に対してです。愛する息子のジークムントとの約束を破ってしまった! 妻フリッカの傲然として言い放つ「正論」にうろたえてしまい、自らが誰よりも深く傷つきながら、そして誰よりも悲しみながら、愛する娘と別れることを決めたのです。ほんの一瞬ですがオーケストラがぐずり、その直後に現れるヴォータンの声は全てを表していました。私は23歳の時、この曲を教室忘年会の席上で歌ったのですが、若いという事は、本当に怖いもの知らずだと思います(!)。

 

(9)「ワルキューレ」 1953年録音(ローマ放送)  
ジークリンデ  

ヒルデ・コネツイニ

ジークムント   ウオルフガング・ヴィントガセン
フンディング ゴットロープ・フリック
ブリュンヒルデ    マルタ・メードル
フリッカ エルザ・カヴェルティ
ヴォータン   フェルディナント・フランツ

ウイルヘルム・フルトヴェングラー指揮 放送録音

これはローマにおける録音ですが、ここにおけるキャスティングの良さは、立派なものです。ヴィントガセンの歌唱は立派で、イタリア・オペラの登場人物みたいな英雄的なクセもあります。またコネツイニはあらゆる箇所で尤もらしく歌っていますが、それはリサイタルをやっているとか、歌の練習会をやっているとか表現すれば良いでしょうか。演劇的な進行とか、伏線とかに余り注意を払ったとは思えないのです。フリックは立派な声でした。これならヴォータン役でも行けそう。実は後でヴォータンを担当するフランツが余りにお粗末だったから、少々皮肉を込めた表現です。オーケストラはやはりイタリア料理。一音一音に力がこもっていない序曲。そこは違うだろ?そこは少しずれているよ、等の注文を付けたくなります。序曲では音を飛ばしている管楽器など。またジークムントが一人残された時、まず太鼓でトン、トン、と繰り返され、あとで管楽器が引き継いでプオ、プオーと短く鳴らす箇所。あの大切な場面ではもっと慎重に鳴らして欲しい。あの太鼓が何を意味するのかも考えてみたが、思い出せません。こういうオーケストラだからフルトヴェングラーも力が入らないようで、あちこちで音が鳴っているだけ、という風に聴こえました。なお風の音はここでは気配のみでした。そしてブリュンヒルデにメードルを迎えて第3幕が開始されます。声は真面目で、音離れが良いのです。メルヒオールと比して、ヴィントガセンのジークムントは声が軽めですが、透明感は勝ります。だから重々しくなく、英雄的でもありません。ジークリンデの方はちょっとばかりレナータ・テバルディが歌えばこうなるでしょうか。つまり美しく歌う事を最優先したような歌い方。そして、フルトヴェングラーの指揮が少し冷たく聴こえます。冷えたというのは、1950年スカラ座と比較した場合です。最後のアッチェレランドが聴こえてこないのです。フランツ役のヴォータンは限界があるようです。メードルのブリュンヒルデは1949 年まではアルトだったと言います。それがドラマティック・ソプラノに変化したわけです。それを考えるとその高音は驚異的です。きちっと最高音域まで出しています。メードル自身は昔を回顧して「バイロイトに出ていた頃、私は既に歳を取っていたのよ」と巧く高音が出ないのを弁解していますが、私の耳にはりっぱな高音を出しています。フリッカ役のカヴェルディの方はまるでメードルがそのまま歳を取ったような声で幻滅でした。残念ながらこの人の声はおすすめできない。

終末近くでオーケストラの鳴らすジャン、ジャンという箇所はここではかなり派手に鳴っています。そして「それがワルキューレの仕事だ!」とブリュンヒルデを怒る場面がありますが、その声は叫んでおり、ホッターのような工夫はありません。ジークリンデを歌うコネツイニは、やはり才能が不足だったかな、と思わせます。そしてジークムントだが、どこが悪いのかと尋ねられた時、私には旋律をなぞっているだけみたいに聴こえる、と答えましょう。透明感のあるのは確かですが、やはり正直に言います。ヴィントガセンはジークフリートだったら適役かもしれませんが、ここで彼はジークフリートの父親を要求されているのです。そのジークムントにはもっと情熱が欲しいのです。冷たい歌い方ではがっかりしてしまいます。これに対峙するブリュンヒルデは体当たりの歌唱で、私はこの歌い方が好きです。巧い、下手の問題ではありません。

本来ならブリュンヒルデはフラグスタートが歌うのですが、折しもEMIスタジオでは例の「トリスタンとイゾルデ」におけるシュワルツコップの吹き替え事件があったため、フラグスタートは出演を拒否、しかたなくマルタ・メードルが(ここでも、スタジオでも)担当する事になりました。メードルは声を下からしゃくり上げる発声ですが、奇妙な魅力があります。ただジークリンデを勤めるコネツイニは声も無い人だったと思う故に、フルトヴェングラーを聴く楽しみを思い出さないと、聴いていられません。例えばブリュンヒルデから、貴女はジークムントの子供(ジークフリート)を妊娠している、と告げられた時にRetee mich Kuhne(勇気ある皆さん、助けて下さい!)と言う箇所では他を尽きぬけて欲しいのです。ワルキューレの騎行の場面ではジャン、ジャンというシンバルの音がややうるさいと思います。

そしてヴォータンの告別を含む重要な場面があります。フルトヴェングラーらしいテンポで大体を進めますが、ワルキューレ達が退散するあたりから、音楽がやや遅く感じられました。フランツの歌うヴォータンはやはり父親というより叔父が姪の命運を左右するような感じです。余り好きではありません。メードルはヴァルナイより少し年長で、いわば40歳代の学校の先生みたいですが、あの陰影に富んだ声は好きです。そもそもワルキューレの別れは何時くらいを想定しているのでしょう?午前中にジークムントがフンディングとの決闘で死に、そこから逃げて高い岩山までやって来たのだから、もう夕方も近いかも知れない。夕闇迫るなかでの永遠の別れだと思えば、あの場面と音楽は納得が行く。ブリュンヒルデが少々歳をとっていても構わないのかも。

 

(10)「ワルキューレ(第1幕のみ)」 1954年2月13日録音  
ジークリンデ  

アストリード・ヴァルナイ

ジークムント 

セット・スヴァンホルム

フンディング 

ハンス・ホッター

フリッツ・シュティードリー指揮 メット管

スティードリーの指揮ぶりは中々のものでした。ウイーンから来た人ですが、ソ連のオーケストラ(レニングラード響)でも活躍した人です。テンポがキビキビしているのが望ましい。この「ワルキューレ」に必要な、煽り立てるような熱気もあると思います。ハンス・ホッターのフンディングという珍しいキャスティングが注意を引きます。実際、もったいない立派なキャスティング。ヴァルナイは徹頭徹尾、立派なドラマティック・ソプラノで、他の年と比してまったく遜色ありません。チョッと引っかかるのはジークムントを歌うセット・スヴァンホルムですが、ほんの少しだけ音がフラット気味なのです。「ワルキューレ第1幕」の幕切れに何カ所か息をついていますが、あれをわざとしたと思えば問題ありませんが、少し疲れたという印象もあります。

 

(11)「ワルキューレ」 1955年録音(カイルベルト)  
ジークリンデ    グレ・プロヴェーンステイン
ジークムント ラモン・ヴィナイ
フンディング

ヨゼフ・グラインドル

ブリュンヒルデ  

アストリード・ヴァルナイ

フリッカ ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィツ
ヴォータン

ハンス・ホッター

ヨゼフ・カイルベルト指揮 バイロイト実況録音

カイルベルト指揮の「ワルキューレ」は何時もの通りで、やや重いのです。ジークリンデは始めから企みに満ちた声を出していますし、ジークムントは英雄的です。フンディングは最も素晴らしいフンディングでした。指揮が良いから何でも可、と言いたいですが、高音は力が抜けるような気がします。そのせいか、53年フルトヴェングラーのところで触れたように、太鼓や金管楽器の「ラ」音の意味が余り深刻には聴こえてこないのです。第2幕に入って最も問題なのはミリコンヴィッチのフリッカだと考えました。このフリッカはどのフレーズも単調です。ホッターもこの相手では反応が遅くなってしまい、聴くものの耳を疑う結果になります。ヴァルナイはやや歳喰った娘ですが、それでもホッターにすがり、「お父様、どうなさったの?」という辺りではハッとします。

プロヴェーンステイーンのジークリンデもこれなら、と期待させる突進力を聴かせますが、ただ長続きしないのが欠点。ヴィナイの声はそれ自体はどうという魅力は余り感じませんが、もっと素晴らしい演奏のあることを我々は知っています。最後のシーンではヴィナイの歌い方が情熱を帯びます。なるほど、ジークフリートとジークムントの違いか、と納得。テンポが速いのもヴィナイを支えています。またプロヴェーンステイーンが恐怖の余り、うろたえるのは良くわかり、その最後には悲鳴を上げています。全体を締めくくるホッターは毎回歌い方を変えていますが、ここでも変わります。すなわち最後の「フリッカの所へ行け!」では絞り出すような声を出しています。決して声がないのでは無く、有り余る声を自在に使い分けているのです。「ヴォータンの告別」のオーケストラだけにまかされている箇所で、勝手にやってくれ、と言わんばかりの投げやりさを感じましたが、あとは問題ありません。ホッターのヴォータンは相変わらず素晴らしいのですが、1953年のクレメンス・クラウス指揮のものと比してオヤと思う瞬間がありました。それよりもブリュンヒルデ役のヴァルナイの歌唱について苦言を呈したいと思います。それは応答が少し遅く、その遅さが気になって音楽が色あせて聴こえる部分があったのです。しかし「私をどうなさろうと言うのですか?」の箇所から、「コレだけは聞いて頂けなければなりません」の箇所にかけて、ヴァルナイは驚くほどの感情移入をやっています。これは素晴らしい!こういうヴァルナイを聴いたのは初めてでした。フラグスタートにも、メードルにも、ニルソンにも無かったものです。これだから歌手は毎年、毎回聴かなければ評価を誤ると思うのです。

これは当初モノラル録音とされていましたが、数年前にステレオ録音されていたと報道されたものです。但し現代のマルチマイク録音ではなく、単純に左右にマイクロフォンを配置したもの。オーケストラの低音が良く響きます。ただプロヴェーンステイーンは余り声のある人でなく、というか既に盛りを過ぎた人のようでした。その声は菅原都々子みたいな声です(あるいは声が衰えた水前寺清子とか。ペギー葉山とか)。全音域にワーブルが認められ、そして彼女の歌うドイツ語はなぜか奇妙です。

 

(12)「ワルキューレ」 1957年録音(クナッパーツブッシュ)  
ジークリンデ  

ビルギット・ニルソン

ジークムント  ラモン・ヴィナイ
フンディング 

ヨゼフ・グラインドル

ブリュンヒルデ  

アストリード・ヴァルナイ

フリッカ

ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィツ

ヴォータン

ハンス・ホッター

ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 バイロイト実況録音

少しテンポが遅くなったかな、と感じさせます。ジークムントはいつもの通り、イタリア的要素を持っており、ニルソンは予想外に激しい歌を歌っています。またグランドルはフンディングとして十分な低音を響かせます。ヴィナイは「イタリア的」と評しましたが、例えば(カタカナで記せば)「アイネン」と言うのを「アイネン」、「フンディング」と言うのを「フンディング」と発音しています。私は日本語でそういう発音をされた時、どう思うか自分でも分かりませんが、ひょっとするとその発音こそが私が「イタリア的」と評した事ではないかと思います。

ニルソンはここで初めてバイロイトでジークリンデを歌います。ジークムントはラモン・ヴィナイでしたが、まるでヴォータンを歌いそうな低めの声です。ニルソンのジークリンデは、勿論それは素晴らしく透明感のある声であり、前述のプロヴェーンステイーンとは比較になりません。ただニルソンは、声の勝負を賭ける瞬間が少しばかり遅れているようで、私としてはもっと前のめりに出てくれたら良いな、と思います。

ミリコンヴィッチのフリッカは女神としての威厳がなく、年増の家庭教師が教え子をこんこんと諭すような声です。その相手にするホッターですら手に余る感じ。ヴァルナイのブリュンヒルデと交代した後は俄然ホッターの演唱力が光ります。ホッターは他のどの年のバイロイトよりも、ここでイライラし、遣り切れない思いをしているのが良くわかります。「ああ無駄な栄華よ、無駄な力よ」と叫ぶ所ではそれが顕著になります。ヴァルナイにはやや声が衰えたような箇所を一点見つけたが、ここでの聴きものはニルソンのジークリンデでした。もう一度、ニルソンのジークリンデを信じようという気が戻りました。これは消えたり現れたりしますが、ニルソンの歌唱をもっと聴こうとする度に、それを実感しました。演唱にのめり込んで聴く場合と、だらだら聴く場合で受け取り方が違うのです。

そしてヴィナイのジークムントは声が小さく、その音色は何とかならないかと思いました。若々しいというより、家賃を督促して回る中年の家主という感じなのです。他方ヴィントガセンの声では透明過ぎます。若々しけれど英雄的な声をのぞみます。ヴァルナイはいわば最後期の声を思わせます。最後の音も尤もらしく、力が抜けていません。ホッターは最後の「行け」の箇所とのコントラストを考えると、問題が残るような気がしました。なおこのクナッパーブッシュ盤「ワルキューレ」と、前のカイルベルト盤「ワルキューレ」の両方で、オルトリンデ役をゲルタ・ランマースが歌っています。イタリア・オペラのケルビーニ「メデア」を歌ったソプラノです。

昔クナッパーツブッシュの指揮に憧れたものです。1951年に「神々の黄昏」のバイロイト音楽祭を発売直前まで準備したのに、突然業務命令として発売が止められたいきさつには憤懣やる方無かったのを覚えています。一部は世に出た、と言うから、もし手に入るなら10万円出す用意があったのですが、今日の50万円に相当するでしょうか。恐ろしや。クナッパーツブッシュの指揮は遅いということを実感したのも今回初めてです。一緒に聴いていた妻は、遅いわね!と感想をポツリと述べていました。これはカラヤン流のお化粧に時間を取っておそいのでは有りません。ここのヴァルナイの声はコレだけ聴いていれば素晴らしい、という一言で済みますが、年度の違う盤を色々と聴いた結果、ある種の思いが生じます。つまりヴァルナイは自らの声を美しく響かせるコツを覚えたのではないか、との思いが浮かび上がってきました。つまり若い戦意に満ちたワルキューレでなく、歳の行った大ベテランの歌手として登場しているようです。ベテランということは、既に守りの態勢に転じていることです。それがうまく働いたから、響きと完成度は素晴らしい。その代わり失ったものも有ります!恐ろしいことです。色々な分野で言えることですが、完成度の高いプレゼンテーションが必ずしも覇気に満ちた公演ではないのです。そしてこれを聴き終るまでニルソンがジークリンデを歌っていることを忘れていました。ニルソンはまだ新人であり、当時はヴァルナイの代役程度の扱いだっただろうと思います。それは正しくそうなのです。声を張り上げていますが、ヴァルナイの敵ではまだナイと思います。

クナッパーツブッシュのテンポは決して遅くはありません。それどころか、あらゆる所で音が途切れるのを恐れているようです。ただ「ヴォータンの告別」の終わり近くで、指揮者が故意に遅くオーケストラをドライブしたのが分かります。ヴァルナイはやはり30歳代のOLかなあ、と思っていましたが自分の運命を告げられ、必死になってヴォータンを説得しようとすがりつく場では素晴らしい感情移入でした。このあとホッターもヴァルナイも下り坂に向かいます。ヴァルナイの最後のバイロイト出演は1967年の「神々の黄昏」でしたが、「ワルキューレ」だって若くないと歌えないのです。

 

(13)「ワルキューレ(第)3幕のみ」 1957年録音(ゲオルク・ショルティ)  
ジークリンデ   マリアンネ・シェッヒ
ブリュンヒルデ   キルステン・フラグスタート
ヴォータン  オットー・エーデルマン

ゲオルク・ショルティ指揮 スタジオ録音

フラグスタートはショルティの指揮でもブリュンヒルデを歌っています。ただし第3幕のみ。私の中で「ワルキューレ」にふさわしいテンポが決まって来たようです。カルショウが若い日に、いつかショルティと「指輪」の録音ができたら、と夢想したという話があります。それがここに実現したわけ。フラグスタートは歌う時、声は堂々としています。それは疑う余地無く、周辺の女性達を黙らせてしまうような所が有ります。それは戦乙女としてのブリュンヒルデとは違うのかもしれません。一応フラグスタート最後のブリュンヒルデをショルティ盤で聴く事ができました。ここまで歌っていれば、要は第2幕冒頭の「ホ・ヨ・ト・ホ」が怖かったのだろう、と思いましたが、どうもそうでは無いようです。フラグスタートは本質的に「死んだ」のです。そもそもショルティはここではフラグスタートに任せているようです。1957年、フラグスタートは最後のブリュンヒルデをこのように歌いました。気をつけなければならないのは、これは「ワルキューレ」のブリュンヒルデだからと言う点です。もし「ジークフリート」や「神々の黄昏」のブリュンヒルデだったら全く違ってきます。もっと年取った貫禄あるソプラノが歌うことも可能だと思います。実際ヴァルナイはずっと後年まで、それらの役柄を堂々と歌う事ができました。でももっと若い「ワルキューレ」は違います。マリアンネ・シェッヒはそれなりに強い声で割り込みますが、フラグスタート相手では同情せざるを得なかったでしょう。いままでシェッヒの評価をする際に、間違って考えていたと思って反省します。

 

(14)「ワルキューレ(第3幕後半)」 1957年録音(レオポルド・ルートヴィヒ)  
ブリュンヒルデ   ビルギット・ニルソン
ヴォータン ハンス・ホッター

レオポルド・ルートヴィヒ指揮 スタジオ録音

これも忘れられない記録です。全曲ではありませんが、当時何度これを聴いたことでしょうか。この年度は言うまでもなく、フラグスタートが最後のブリュンヒルデを歌った年です。そして同年、ニルソンは颯爽と登場したのです。元気一杯。ホッターはまた素晴らしい出来映えで、これはデッカ盤より優秀です。ホッターの歌を聴いていると、父親が愛娘と別れる時の心情はこういうものか、とシミジミ感じました。最後にはホッターは声を押さえ、沈んだような声で歌う。そのコントラストの巧みさ!指揮者ルートヴィヒの意思だったのでしょうか。そうだとすれば良く言われるような凡庸な指揮者ではないことになります。あの絶妙な声の沈め方は誰が言い出したのでしょう。ホッターは素晴らしい声で歌い続けますが、その背景に流れるオーケストラはどちらかと言えば凡庸にも思えますので、判断に苦しんでいます。

 

(15)「ワルキューレ(第1幕のみ)」 1957年録音(ハンス・クナッパーツブッシュ)  
ジークリンデ   キルステン・フラグスタート
ジークムント セット・スヴァンンホルム
フンディング ヴァン・ミル

ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 スタジオ録音

スタジオ録音です。これは最初からステレオ録音ですし、クナッパーツブッシュの指揮。フラグスタートは素晴らしい。しかしほんの少しですが、歌とオーケストラがずれています。それに目をつむっても、あんなに女王然として歌って良いものか、と思ってしまいました。ここは例えばロッテ・レーマンのような歌い方が好ましいと思います。贅沢な不満です。

 

(16)「ワルキューレ(第1幕抜粋) 1962年録音(クナッパーツブッシュ)  
ジークリンデ  クレア・ワトソン
ジークフリート  フリッツ・ウール
フンディング  ヨゼフ・グラインドル

クナッパーツブッシュ指揮 ウイーン・フィル実況録音

これはクナッパーツブッシュ最後のコンサート記念の記録です。やはりこの演奏はテンポが遅いと思います。余りに遅い。クナッパーツブッシュはこの1 年後に死去。ウールは確かに声が若く、コレから歌うぞ!と意気込んだ時は英雄らしい声を張り上げますが、逆に叙情的な所になるとまるで初々しい学生みたいでした。そしてワトソンは当初、これならと期待させましたが、やはり声のパワーが無く、引導を渡してしまいました。私自身はクナッパーツブッシュなら何でも可でしたが、いまはどうかな、と正直言って迷います。指輪の物語は1200年前の事件だから何も慌てる事は無いよ、大海に浮かぶ舟に乗ったつもりで聴けば、という声もきこえますが、クナッパーツブッシュの1957年盤と比しても、全く違う音作り。トネリコの木(母系社会を表す)にささった剣を抜き取るという象徴的な場面がちっともアピールしてこないのです。こういうのを考えると、やはりデッカの録音技師ジョン・カルショウの言うように、「指輪」はクナッパーツブッシュで録音すべきでない、という意見も分かる気がします。

 

(17)「ワルキューレ」 1965年録音(ゲオルク・ショルティ)  
ジークリンデ   レジーヌ・クレスパン
ジークムント    ジェームズ・キング
フンディング   ゴットトープ・フリック
ブリュンヒルデ  ビルギット・ニルソン
フリッカ クリスタ・ルートヴィヒ
ヴォータン

ハンス・ホッター

ゲオルク・ショルティ指揮 ウイーン・フィル

まずテンポの速さに驚かされます。そして音が清麗。ステレオの音ってこうだったか、と思い知らされます。これを聴いているうちに気がつきましたが、なぜワルター盤「ワルキューレ1幕」を聴いた時に感激したかが分かったのです。ワルター盤の方が遥かに速いのです。その昔ショルティ盤ばかり聴いていましたが、たまにその間にクナッパーツブッシュ盤を聴く程度だったから、ワルター盤は実に新鮮でした。クレスパンは申し分無くお手本みたいな歌で、キングもまた典型的なイタリア風英雄のおもむきを備えたテノールでした。指揮者のリズム感とテンポ設定のおもむきにも感心。ハンガリーの血でしょうか。これを古いフリッツ・ライナーの指揮と比べてみると、あちらもやはり畳み込むようなテンポで振っていました。ブリュンヒルデは舞台の中央に立ち、他を寄せ付けません。そこで喉のトランペットを全開にするのを聴くのは心地良い。考えてみれば、それではブリュンヒルデは「考え無しの娘」という感じになりますが、実際プロットではそうなっています。これがヴァルナイだと、どうしても思慮深い中年の家庭教師みたいに響いてしまいます。ジークリンデを歌うクレスパンはこれまた適切な声を響かせます。惜しむらくは「Rette mich Kuhne!」の箇所だけ。後一歩の響きが欲しい気もしますが。それにしてもこれは恐るべき録音だと思います。

ただ物理的な力で言えばここでホッターは少し力が衰えています。余り言いたくない話。どうしてもホッターと言えばこの数年前の近付き難いようなイメージがつきまとう。ただし他のヴォータンと比較すると、今なお比較を絶しています。しかし「あのヴォータン」の姿はここに有りません。ニルソンは元気一杯ですが、ホッターとの対話ではどうしても影響を受けるようで、やや話の内容も軽そうです。ヴォータンが悩む姿を見て「お父様どうなさったの?」の場面もあっさりしているし、ヴォータンの命に背く逆提案をしたところ、「何を言うか!」と叱られる所、これは重要なのですが、浅い表現が気になります。フリッカのルートヴィヒは満足のいくもので、諸処に巧い表現をちりばめています。ただ彼女の弱点は、声そのものが「普通の声」という点。あそこに少し「硬質の影」がつけば、と思うのは私だけではないでしょう。例えばアストリード・ヴァルナイが「もし」ここのフリッカを引き受ければ、問題なく喝采されたに違いありません。そしてクレスパンは美しく、ここまで最高のジークリンデ(全くコンセプトが違いますがあとロッテ・レーマンも考えられます)。キングも素晴らしいですが、それはほんのちょっと不純物が混じっているからと踏んでいます。ワーグナーの英雄もこの不純物を適切に含めば、極めて有効になりますが、そのサジ加減が難しいところ。

ブリュンヒルデがジークムントの前に姿を表し、一緒にワルハラに行きましょう、と言った所、ジークリンデを連れて行けないならごめんだ、と答えます。あれこれ対話のあとブリュンヒルデはヴォータンの命に背いて、ジークムントを助けることを決意。このあたりショルティの音楽はスポーツ的快感に満ちています。元気溢れるニルソンのブリュンヒルデもそれに答えて、彼女の素晴らしいソプラノをまき散らす。あとに残されたヴォータンはフンディングに向かい、「行け」と言い放つ場面で、やはり声が出ない。これは声を潜めたというより、声を失っていることを思わせます。

この懐かしいショルティ盤を今までに何回聴いたことでしょうか。50回?それとも60回?改めて聴いてもこのテンポが私には合うのです。「愚かな娘」ブリュンヒルデを演じるニルソンが最後に最も真剣に悩みをぶちまけています。「もしそうなら、この場であなたの槍で突き刺して!」と叫ぶ。ヴォータンが「私が悩みに苦しんでいた時に、お前は甘い自己満足を味わっていたのだ」となじる場面から後です。そして「恐ろしい炎でかみ殺して」と言い終わってからヴォータンの「さようなら」に至る一瞬のタイミングの良さ!こういう所はショルティより録音プロデューサーのジョン・カルショウのチーム力だと思います。

 

(18)「ワルキューレ」 1966年録音(ヘルベルト・フォン・カラヤン)  
ジークリンデ   グアンドラ・ヤノヴィッツ
ジークムント   ジョン・ヴィッカーズ
フンディング  マルティ・タルヴェラ
ブリュンヒルデ 

レジーヌ・クレスパン

フリッカ  ジョセフィン・ヴィージー
ヴォータン  トマス・スチュアート

ゲオルク・ショルティ指揮 ウイーン・フィル

ショルティ盤の後追いの頃、カラヤンがベルリン・フィルを指揮して録音した「ワルキューレ」がこれです。当時は各会社が「指輪」録音に賭けた情熱の熱さに目を回したのを覚えています。グラモフォン社はカール・ベームのバトンに、ニルソンをブリュンヒルデとする実況録音をバイロイトで実行させました。この時期に先駆けてスタジオ録音を行ったのがデッカ社であり、それもニルソンを主役にしていました。その録音時に各種雑音が入らないように、ソフィエンザール周辺をパトカーに管理させ、またそれをウイーン当局は受け入れたと記してあります。デッカとグラモフォンとフィリップス。そしてウイーン・フィルを押し出すデッカ社と、ベルリン・フィルの機能美を強調するグラモフォン社、そして伝統的な実況録音を売りにするフィリップス社。

カラヤン盤を実際に聴いてみると、歌手達の声に失望しました。まずヴィッカーズの声は何だろう?金貸業の声?あれは頂けないと思います。ヤノヴィッツの方は大いに期待しましたが、全体としての満足が得られませんでした。オーケストラはそれに合わせてピアニシモでゆっくりしていますから、透明感はあります。それは美しいのですが、あの美しさはまるで「椿姫」みたいだと思います。「椿姫」は「椿姫」で大好きですが、「ワルキューレ」とは全く世界が異なります。

序曲は猛烈な速さで始まり期待させますが、ジークムントの声が出た途端に失望しました。これはお笑い番組か、と笑い出してしまったのが本当のところ。これで10代後半という設定は無理。まるで45歳。カラヤンがどういうワルキューレのイメージを持っていたのか。ジークリンデに焦点を当てて聴き惚れているうちに、ワルキューレ1幕は終わってしまう。しかし第2幕の音楽以降、カラヤンは巧いと思います。

カラヤンはクレスパンが「ホ・ヨ・ト・ホ」の最後への移行をしゃくり上げるように歌うため、その部分でぐっとスピードを落としています。これは2回繰り返す(しっかり確かめられます)から間違い有りません。そしてヤノヴィッツの歌うジークリンデが美しいので、ついつい聴き惚れてしまいます。カラヤンの仕掛けた罠です。ブリュンヒルデは力強く、そのあたりでは素晴らしい。それでも最後のパワーが不足し、ブリュンヒルデ向きでありません。大変惜しい。ジークムントは声を潜らせ、その限りでジークムントらしい。ここはカラヤンのテンポが遅すぎる為です。一音一音を大切にするためだと言う事はわかるのですが。

正直言ってヴィージーは声が無いと思います。人は声を出す時、様々な音程を含むスペクトル分布を持っていますが、何かある特定成分が聴こえないのです。その部分を除けばヴィージーも巧みに処理しようとしています。しかし、この幕で重要なクレスパンは適役ではないでしょうか。特にここにおける「考えの無しの娘」役としてはピッタリ。むしろ全体としてのイメージはニルソンよりこの方が好ましいかも知れない、と考えています。ただし、もっと進んで聴きますと、クレスパンは声に限界があると思いました。やはり声は重要です。第3幕に入りますと、意外にも(!)カラヤンの指揮ぶりが良いのです。どうやらカラヤンは自分でコントロールできる箇所は問題なく、その代わり気を使う相手がそこに存在した場合はまずい事もあるのでは無いかと思っています。彼はナルシストですが、他人の評には気を使う人間だと思う次第。そしてクレスパンの歌も当初は全体に埋没せず、自らの存在感を示すのにも成功しています。最後までそれで行くかと思いきや、残念なことにワルキューレ達と離れるところに至ると、クレスパンは声が弱くなります。声量が小さいのでなく、量のコントロールがまずいのです(そう思います)。ワルキューレ達がいなくなり、ヴォータンとブリュンヒルデだけになると、その対話は巧く行っています。それがまたもや、最後まで持たない。これはクレスパンの耳に小声で囁きたい所ですが、あくまで私の個人的感想です。

そして「ヴォータンの告別」の終わり近くではまるで雪の結晶のように美しい。そしてテンポが遅くなります。カラヤン盤はショルティ盤よりややキイ音が高いのではないかと思います。というより、余り低音を重視していない感じ。テンポはそれなりに説得力があります。カラヤンとスチュアートの方は申し分なく上手くいっています。そしてゆっくりと音楽は進みます。このテンポは尤もらしい。そしてヴォータンはホッターばりにさいごの「Geh!」を叫び落とします。ベルリン・フィルは格好よく、キビキビした音を響かせ、その分解能も凄い。ただ、ふとその美音を聴きながら思ったのは、これはまるでリヒャルト・シュトラウスみたいだな、ということ。映画みたいな無機的な音の伽藍。

 

(19)「ワルキューレ・指輪から抜粋」 1967年録音(カール・ベーム)  
ヴォータン    テオ・アダム
ローゲ  ウオルフガング・ヴィントガセン
ジークフリート  ibid.
ジークムント ジェームズ・キング
ジークリンデ レオニー・リザネック
ブリュンヒルデ ビルギット・ニルソン

カール・ベーム指揮 バイロイト響

コレを聴いて思ったのはベームはカラヤンみたいなタイプと全く違い、どんどん勝手に弾いてくれ、と言っているようだと言う点です。なぜベームのところには歌手達が大勢集まり、カラヤンからは離れて行ったのか、その訳が分かったような気がします。その分だけベームの指揮は言い方は悪いが、素人っぽい所があって、細部の仕上げをあまり工夫していないと思うのです。歌手の選択でも余り気にしていないと思いました。ヴォータンを歌うテオ・アダムは声が軽過ぎて、まだシャバに未練が残っているようですし、ジークリンデはおばさんっぽい声です。またヴィントガッセンはどうも年を取ったなあ。そしてニルソンですが、高い音をダイレクトにアタックする時は素晴らしい声ですが、中くらいの高さの音をポン、ポンと続け様に出すとき、どうも私の聴き方が悪いのか、音程が正確で無い気がするのです。ですから長い旋律を聴くと、大丈夫か知らんと心配になります。何かほんの少しだけずれている気がしてなりません。実演で感じる印象は、そのまま録音でも消せないのです。オーケストラに勝手にやらせている印象は、あの特に素晴らしい自己犠牲の際に、ひっくり返ったようなトランペットの音色を許したことにも現れています。とまあ、悪い事を並べましたが、それでも私はカラヤンよりベームの方を買います。(1967年録音)

 

(20)「ワルキューレ(第1幕のみ)」 1969・70年録音(クレンペラー)  
ジークリンデ   ヘルガ・デルネシュ
ジークムント   ウイリアム・コクラン
フンディング   ハンス・ゾーティン

オットー・クレンペラー指揮 ニューフィルハーモニア管

EMIが全曲録音のつもりで、ブリュンヒルデ役としてアニア・シーリアと契約したとも聞きます。クレンペラーはあれほどワーグナーと縁が深かったと思いきや、一度もバイロイトに招かれていません。昔LPでこれを聴いた時は、凄い!と思いましたが、後年CDで聴き直したところ、そうでも無かった。ジークムントのコクランは後になるほど巧くなりますが、最後の「ウエルゼの子孫、栄えよ」の部分でも力を抜かないで欲しかった。ジークリンデ役のデルネシュには色々と注文があります。最後のあたりは素晴らしいのですが、殆ど全編で、デルネシュの歌は節度の効き過ぎだと思います。声に力が無いようです。モーツアルト「フィガロの結婚」における伯爵夫人の歌みたいに聴こえます。デルネシュは昔、R.シュトラウスを良く歌ったと記事に書いてあったから、なるほどと思いました。クレンペラーの指揮は彼なりに力が籠っているのを感じられます。テンポはやはり遅いようです。クレンペラーは亡くなる前にはどんどんと遅くなったと聞きますが、これもそうなのだろうと思います。私が18際の時、大学の生協で初めて買ったLPがクレンペラーのワーグナー管弦楽集だったのを思い出します。オーストリアのソプラノ、デルネシュはこの録音の後でメゾ・ソプラノに転向しました。それでもジークリンデはメゾがかっていても一向に構いません。むしろここでのデルネシュは何か思い詰めたような20歳代の女性、という感じでこれはこれで良いと思います。米国人のコクランも英雄的な響きがあり、ジークムントも20歳代みたいで良い。またゾーティンはドイツのバスですが、これで十分でした。あくまでそのテンポに付いて行けるかどうかで評価は分かれると思います。カラヤンみたいに所々でテンポが変わることが無く、悠々と流れるような音です。

 

(21)「ワルキューレ(抜粋)」 1980年録音(ピエール・ブーレーズ)  
ジークリンデ   ジャニーヌ・アルトマイヤー
ジークムント   ペーター・ホフマン
フンディング マッティ・サルミネン
ブリュンヒルデ  ギネス・ジョーンズ
フリッカ     ハンナ・シュヴァルツ
ヴォータン ドナルド・マッキンタイヤー

ピエール・ブーレーズ指揮 バイロイト響 パトリス・シェロー

これを久しぶりに観て、ブーレーズの指揮ぶり、特にその畳み込むような速さに関心しました。私はコレくらい速い指揮もアリだと考えています。残念なことに若干音が濁るのですが、この記録は私はレーザーディスクの形(しかも抜粋盤として)で持っているだけなので、変換上の問題かも知れません。時々風のようなうねりを感じます。ここで注目すべきはジークムントとジークリンデの兄妹が登場した所から、これはただならぬ関係だろうと思わせることです。両者ともそれぞれテノール、ソプラノなんですが、これが凄味を帯びてますし、その暗さを込めた音が実にワルキューレの子孫だと分かるのです。これが明るい声だけだったら感じないでしょうから、キャスティングの成果です。そしてフリッカでさえ、視覚の助けを借りると実にくっきりした声です。惜しむらくは、主役たるヴォータンの声でした。マッキンタイヤーの声は力不足で、全体の中で占める重要さを感じさせません。そしてギネス・ジョーンズの声は問題なく、素晴らしいものでした。良く響き渡ります。この演出上の新しい試みは各人の好みによります。

 

(22)「ワルキューレ」 1989年録音(ジェームズ・レヴァイン)  
ジークリンデ   ジェシー・ノーマン
ジークムント   ゲイリー・レイクス
フンディング クルト・モル
ブリュンヒルデ  ヒルデガルト・ベーレンス
フリッカ     クリスタ・ルートヴィヒ
ヴォータン ジェームズ・モリス

ジェームズ・レヴァイン指揮 メット響 DVD

全体にメットはメット、という感じです。キャスティングもプロダクションも、最大幸福を狙ったもので、それなりに成功しています。背景は兄妹の抱擁のあとで突然幕を引くようにサーと広がりますが、あれもショッキングでよろしい。ジェシー・ノーマンは音色はメゾがかっていますが、喉頭がうまくコントロール出来たときは、問題なく素晴らしい音色です。そのかわり、途中でふと現れる乾いた声は聴き苦しいのですが、気にし過ぎでしょうか。兄役のレイクスと共通するのですが、ミテクレの悪さを感じてしまうので、贅沢な望みですが、これがスマートな人だったらなあ、と感じたのが実感です。その点バイロイトにおけるアルトマイヤーとホフマンのコンビが大変恋しい。メット版は小道具を含め、保守的ですが、あれも保存しておいて欲しい。世界中全部のオペラ演出がミョウチクリンになったら詰まらないですから。

第2幕以降はブリュンヒルデとヴォータンが主役で、あとフリッカが以外に重要です。このフリッカはクリスタ・ルートヴィヒが勤めますが、相変わらずの主婦姿で、これをやって居ます。新劇風というのでしょうか。あまり神様の世界を表すのとは違う気がします。ここからベーレンスが登場しますが、この人は映像から言うと、やや小柄なのと、演技に熱気を感じないことが有ります。もっと素早く表現できないかな、と思います。実際第2幕終わりの部分で、ジークフリートの味方をすると告げますが、このあたりの表現は甘いと思います。これは音がよくないのですね。低音が不足していて、レヴァインが一生懸命汗をかいても一向に伝わってこないのです。もっと低音部を強調し、しかも低音を主として、ウオオン、ウオオンとリズムを刻むと良いと思いますが。肝心なのはリズムを付けること。ジェームズ・モリスのヴォータンは余り巧く有りません。少なくともホッターと比較すると、その比較もできないくらいです。顔の表情をもっとあらわに出して欲しい。また手足の演技力も不足気味。

そして第3幕は声に集中力を欠いているようです。どうしても、どんなに好意的に聴いてもこの演出と歌唱力の集中すべき所が、甘いです。ベーレンスはあれよあれよという間に歌い進んで行きますが、あの重要な場面をも何もしないで、サラッと歌っているのです。これはベーレンスだけの責任ではなく、ヴォータンの箇所でも同じ事が言えそうです。あのヴォータンはハンス・ホッターと比べるべくもありません。立っているだけで、威厳に満ちなければならないのに。テンポがやや速いのです。その点は目をつむりましょう。ただ、アクセントというか、強調すべき箇所は、万難を排してそのようにしないと印象が悪くなってしまうのです。私は「ワルキューレ」を聴いた事も観た事も無い人から、もしこのプロダクションを買うに価するかどうか、と聞かれたら、即答に苦しむところです。少なくとも私本人だったら、モリスというバス、ベーレンスというソプラノの購入はちょっと留保するかな。全体としてみると、それでも演出は合格です。

 

千葉のF高












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