キット屋倶楽部
キット屋コラムの部屋
 

『オーディオと音楽の交差点』

音楽とオーディオの交差点 第3回


 ご無沙汰しております。四弦亭酔響です。
 第1回2回とお楽しみ頂けましたでしょうか。今回は第3回となりますが、一緒に第4回も同時にアップさせて頂きますので、是非お読み頂ければと思います。若干各回ともあいまいな記憶をたよりに書いていますので、史実関係で不正確な記述があるかもしれませんことを先にお詫び申し上げます。

演奏会の評価
 「演奏会の出来」という言葉がありますが、お客様、奏者、指揮者、お客様、プロ評論家、と様々な立場の人々がその演奏会を共有体験していますが、面白いことにその評価は様々になることが多いです。

 演奏者側である指揮者とオケ奏者でも評価は異なりますし、当然のことかもしれませんが、楽器パートによっても微妙な感想のズレというものも少なからず存在する訳です。感想を持たないでもくもくと職人のように仕事としてこなす方もいます。

 指揮者に対する各奏者からの評価も同じとは限りません。

 当然のことながら「絶対はない」訳ですので、各立場、役割、意識、取り組み、経験によってもそれらの感想は変る訳です。

 お客様のサイドでも、その感想や感動、また批判というのは様々です。その方の持つ、演奏会に来られた動機によっても変化するでしょうし、一度も聴いたことの無い曲と常にCD等でも良く聴いている曲であるかどうか等、経験や知識によっても千差万別になるのではないでしょうか。

四弦亭酔響流の評論の活用術

 実際、評論(批評)家(各雑誌等メディアで名前が出ている方)という方は通常、主催者等のご招待等で来られている場合は少なくないようです。そういう意味では某局の深夜番組の井筒監督の「こっちとら自腹じゃ」ではないですが、正規の料金で聴きにこられるお客様からの感想はどんなものでも演奏側は感想は感想として謙虚に受け止める必要があると考えます。
 批判も期待の裏返しである場合も多いですし。その感想が演奏側から言えば??であったとしてもそのようにその方に感じさせてしまった演奏には何か問題も別な所にある場合もあるかもしれませんので。代金を払い、時間を割き、足をお運び頂いたお客様は神様なのですから。

 各種評論を読む場合、皆さんはどのように読まれていますか?
 @@評論(批評)家と言っても国家資格がある訳でもなく、様々なキャリアや経歴をもった方が行ってます。音楽専門の教育を受けた方もいらっしゃるでしょうし、そうではないが教養としての造旨が深い場合もある、学者さんの場合もあります。

 私は「読ませる文章能力」がポイントになるのではないかと思います。これは別に音楽評論家だけでなくオーディオ評論においても様々な分野での評論というのはそういうものだと思っています。
 音楽演奏という抽象的なものの書く演奏会の評論というのは本当に大変なことだなと思います。文芸作家のような方の評論文になっている場合もあります。
 先にも書いたように、自腹でない場合はご招待を受け、それが演奏団体や主催者との商売上の良い意味でも悪い意味でもギブアンドテイクになっていることはそれを生業としている場合、決して無視できない事実があることはご理解して頂きたいと思います。

 さて、評論文から何かを得ようとする場合には私はズバリ「何を書いていないか」を一番の自分の理解ポイントにしています。

 たまたま私も聴衆として聴いたものであれば、私と異なる感想や評論を書かれている方もいますので、なんとなく各評論家の聴いているポイントや価値をおいている部分というものをその経験との比較で知ることが出来ます。そのように基準を自分で持っていれば、エンターテイメントとしての面白い読み物として読めますし、有意義に活用出来るのではないかと思います。
 また、一般の方よりも多くの演奏や録音に接する機会は明らかに多い訳で、将来有望と思える演奏家を積極的に紹介したりすることもありますので、読み方受け取り方のほうで取捨選択をしてゆけば良いと思います。例えば、自分で信頼をしている評論家がなにやら面白いCDや演奏家を紹介している場合は聴いてみようかなと思いませんか。
 論文や評伝など多くの資料を使って書かれたものなどは、きっちりと出典を明らかにしてあれば、資料としての価値も高まります。時々出典を明らかにしないでパクって書いてあるものもありますので、その著者への評価をこちらが決めればよい訳です。

 欧米のメディアの批評は書いている方のスタンス等がはっきりし、またその掲載メディアの方向性もはっきりしていることと、それを読み受け取る読者が個人主義が確立しているという前提で批評家や評論家が社会、文化芸術の発展や堕落の歯止めや警鐘という役割を社会的認知も含め確立しているなあと思うことも多いです。

 これは新聞やマスメディアでの記名記事制を取っている(最近日本の新聞等も真似ている場合もありますが)ということからも解ります。批評家という立場で音楽や演奏への影響力をもったとされる19世紀においてのヴィーンの批評家(音楽学者)ハンスリックなどは彼の功績に対しては様々な意見はあるという前提においても一定の歴史を通してその価値が認められているという場合もあります。

 オーディオやレコード業界における評論家という存在も同様ですが、まあ、何が自分の為の情報になるかは自己責任で判断されることしかありません。
 良く評論家をけなすような論調もありますが、ビジネスとして成立している以上、その情報や評論のエンターテイメント性も含め需要と供給が成立している訳です。それに文句を言っても始まりませんので、山の様な情報の海から自分が必要な情報を得ることとそれをどのように自分の判断や価値観で捕えるかということが重要だと思います。

 私が思うに(これも私の価値観なので皆様がどう判断され利用するかはご自由なのですが)自分の嗜好や価値観をきっちり持って自分と同じような感性の方を見つけたり、真逆な感性の方を体験や経験で見つけておくと自分の判断には大変に役にたつのではないかなと思います。当然、多くはどうでもよい方になるかとも思います。

 前述したようにあくまで読み物としてのエンターテイメントや情報を得るということで自分の責任や価値観においてそれを利用したり楽しめばよいのではないかと思います。
 ただし、この前提はその受け手が自己責任原則の上に「個が自立している」ということが一番その適正なスタンスを保てますし、重要なのではないかと思ってます。

 あくまで趣味や嗜好(テイスト)や価値観がポイントになるようなものは自分で最終的に判断することが必要なのではないでしょうか。

 ここで大切なのは、他人の書いたものや言ったことをそのまま自分の考えにしてしまうような思考経路は断っておくことです。その為には自分の感性を磨き、経験を増やし、教養を高めるということです。
 趣味というものはそういうものではないかと思いますし、その主体的能動的取り組みは趣味としての面白さや感動をより高くしてくれるはずです。

♪パウゼ♪
 モーツァルトのお父さんレオポルド・モーツァルトは優秀な音楽教師としてヴァイオリンの奏法のテキストを書いている(これは歴史的な意味においても名著です/日本語訳も発売しています)のですが、そのテキストの中で「良い趣味」を身につけて演奏せよ、と言っていますが、良い趣味(テイスト)を持てるように教養を深めるように努力したいと思います。
♪♪♪

 当然のことながら時代時代においてそのテイストは変化し、音楽も芸術の一翼を担うものとして美術と同じような社会を反映しているものになります。クラシック音楽にしてもルネサンスーバロックー古典ー前後期ロマンー近代ー現代と繋がって現代社会に生き残ってきています。

 きっかけはマーラーでもチャイコフスキーでソロでも室内楽でも管弦楽曲でもなんでも良いのですが是非その好きな作曲家をきっかけに様々な時代の音楽や関係を知って行かれるととても音楽をより楽しむことが出来るかと思います。
 また、好きな楽器や指揮者からでも良いのですが、是非音楽の引き出しを多くつくられて自分なりの価値観や良い趣味を作っていって頂きたいなと思います。
 趣味(ホビー)を趣味(テイスト)を高めてゆくことによってより趣味(ホビー)を楽しい豊かなものとしてゆくことが良いと思います。
 抽象的な音というものを文字や言葉で表現することを主体に自分のイメージ構築をするのではなく、実際の体験と共にバランスをもって共有されることが大切と思います。そういう意味で生の演奏会へ足を運ばれることも時には大切なのではないかと思います。


 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がありますが、バッハの究めた対位法(作曲法)は西洋音楽の発展や後世の作曲家に少なからず影響を及ぼしている訳です。
 ハイドンの職人的作曲技法の素晴しさや洒落。
 モーツアルトの天才性。
 ベートーヴェンの革新性が前期ロマン派の扉を開けていったように、特にそのテイストや革新の前後のエネルギーというものはとても魅力的に感じます。
 良く知られているようにベートーヴェンの交響曲第3番は「英雄」というタイトルがついていますが、理想を同じくする同時代の英雄と思い敬愛していた王政を倒したナポレオンの為だった訳ですが、結局ナポレオンは皇帝になってしまい、ベートーヴェンが「ナポレオンよお前もか!」と怒ってそのナポレオンという名の書いた表紙から消して「ある英雄の思い出の為に」ということで「英雄/エロイカ」というタイトルになっていると言われています。

♪パウゼ♪
 この変ホ長調(Es-dur)という調性は他の作曲家も多く使用していますが「立派な、偉大な」たっぷりした豊かな響を持つものです。偉そうな響というより本当に偉い響とでも言いましょうか。このあたりは西洋音楽は調性音楽ですので、各調にその作曲家のその曲のイメージや思いが込められているので、その特徴を理解して演奏しないといけません。
 ベートーヴェンはそのあたり大変こだわっていたようで(当り前ですが)自分の曲は奏者の都合で勝手に移調して演奏しないようにと主張していたということです。調性による楽器固有の響を利用している場合も多く、オリジナル楽器(ピリオド楽器)による(古楽)演奏ではその当時作曲家が想定していたと思われる響に近いものを知ることができます。このあたりは別に書きたいと思ってます。
♪♪♪

絶対音感=音楽能力?
 一時、絶対音感という本がベストセラーになりましたが、絶対音感と言っても440や442Hzでの平均率の絶対音感というのは実際には調性のない音楽や所謂最高音域に近い音程を聴音的に取る時には便利だと思いますが、純正調に近い響の美しさを求めるアンサンブル音楽や和声の展開や転調の演奏にはあまり役に立ちません。

 別に鍵盤楽器では弦楽器のように適宜音高を変化させられない為の音律の問題があります。
 平均律だけでなく歴史的に多くの音律法が考案されてますし中全音律(ミーントーン)というようなものもあり(モーツアルト時代はそれで調律した鍵盤楽器を弾いていたようです)調性音楽に対応するように工夫がされています。
 現代の平均律を基準とした絶対音感では音楽的には利用価値は限られるということは指摘しておきたいと思います。

 実際にもアバウトな絶対音感の方が殆どで、本質的な絶対音感を持つある種の音楽的才能として活用出来る方はほんの一握りと思います。もし442Hzで絶対音感が成立していたら、約半音低いバロックピッチである415Hzやそれ以外の時代や各地域による基準音高には対処できなくなるというより、半音下げて読み方を変えるというような調性音楽とはまったく関係ない世界で演奏しなければいけなくなってしまいます。
 このあたりは古楽系の奏者のほうが和声的知識も豊富に勉強もしていますので、モダンオケの奏者でもそれ知らないで経験値だけというのでは心もとないな思います。

 また、アバウトな絶対音感では体調によっても聞える音が変化しますのでまあ、音楽を演奏するのには本質的な役を足すものではないということです。和声的なドレミファソと旋律的なドレミファソを良い趣味で覚えて移動ドで変換したほうが余程音楽的であるとも言えます。

日本の音楽教育

 因みにどうもクラシックの日本の過去の音楽教育は知識的な調性は教えますが、演奏としての実践的調性感の教育の現場では重要視されない(認識されていなかったともいえる)でテクニック偏重の教育が多かったことは認めざるを得ないと思います。それが証拠に多くのテクニック的には最高ということで日本のコンクールの入賞者達が欧米の学校に入学して指導を受けると、まず初めに時間をかけて直されるのは音程なのですから。この例は本当に枚挙にいとまのない位、つい最近までそうでした。
 それくらい調性音楽を演奏するのに最も重要なことで、良い音程を学び実現することが一生の修行とも言えることと思います。実際には欧米の奏者でもそれを前提としていながらも、目的や流派に応じたそれぞれの音程のとり方があってこれも絶対はないのです。
 逆に一流の奏者は自分なりの音程表現を持って自分の音楽的な表現の色を出していると言っても良いと思います。あの指揮者や奏者が「耳が良い」と言われた場合は「絶対音感がある」ということではありません。趣味の良い音程ともいえましょうか。これが特にカルテットになれば相当厳密になりますし、各オーケストラも歴史に応じた和声や旋律の音程傾向というものはあって、独特の表現力として使用します。なので、いくらヴィルトゥオーゾを瞬間に集めたオケにしても、最高のオケにはならないのです。それにはお互いの理解やコンセンサスによって、各奏者の響のイメージそしてそれを実現するための音程を合わせる必要が出てくるのです。

 この音程感や調性感は色彩や響の豊かさを伴い結果的には音楽表現力に繋がりまして、これが聴衆またCDを聴くことでも聴き手にも認知されます(どうしてかは知らなくても)のでとても重要な本質的な話しなのです。
 そういう意味で、ヴィーンフィルは同じ流派の奏者を入団させて(独特の楽器も響き実現の為にこだわって使用し)かつ国立歌劇場での経験をもって選抜された団員がヴィーンフィルを構成させていますので、純血的である分、技術的には世界最高とは言えない部分もありますが、彼等の奏でる同じ円の中にあるようなハーモニーの美しさや表現力の豊かさは本当に凄い比類のないものと思います。

 ベルリンフィルはベルリンフィルの凄さがありますので、これもまた聴くものを感動させる馬力瞬発力、各種の対応能力、そして卓越したソリスト級の天才奏者達が全力で演奏する響はまた素晴しいもので、まさにプロイセンの軍隊のような歴史と伝統のイメージを彷彿させます。
 最近のベルリンフィルの団員となる為の試用期間は最長2年にもなるというのはただ技術と音楽が個人的に卓越しているだけではオケは成立し伝統を守り、前向きに作り上げることは出来ないことの証明ではないでしょうか。

 オーディオにおいてもそのメーカーの系譜というものが取り上げられるように考え方や音への感性というものはそれぞれの特徴があるのと同じです。それはただ単にハイスペックのパーツや測定値を使っているということだけで最高のイメージした音にはなりえないということと同じではないかと思います。最終的な音決定は測定機でというメーカーは今後生き残れないのではないかと思います。やはり「鋭敏かつ愚鈍な」人間の感性で最終的には判断されることが良き音楽、良い趣味、良い再生をしてゆく為の必須なアナログ的な行為と思います。
 要は最終決定は人間のセンス次第ということです。実際に車でも最終的な判断はテストドライバーのセンサーで判断しているメーカーが味のある良い車を出していますし、Fー1だって結局はドライバー(パイロット)達のセットアップ能力が最終的な車造りの判断となるのですから。当然、その開発過程において各理論や器械的データをどのように活用して行くかも結局はヒューマンである人間の判断次第なのですから。


100人いれば100通りの声?

 大橋様が先日ヴォイシングに関して書かれていましたが、「非のうちどころ」がないものにすればするほどつまらないものになる可能性があります。オーディオにしても音楽にしても趣味(テイスト)によって各自によって判断されるべきものだと思いますので、自分の好きな音や音楽、また演奏というものを見つけるようにして、その後から2度おいしいような後付けの理論や他人の評価で納得して楽しむことをしたほうが、いろいろな情報に踊らされないのではないかと思います。自分を磨き、自分を信じること。なので、同じ器械のシステムでも100人いれば100通りの再現音になってくる訳で奥深い趣味性をもつ良きものとして各自の人生を豊かにしてくれるのではないかと思います。

 但し、注意しないと「井の中の蛙」になってしまうこともあります。まあそれで個人が満足していれば何も他人が口を挟むものではないのですが、第1回に書かせて頂いた、良い/悪いを独善的に構成してしまうかもしれない無知のトラップ。これは注意が必要と思います。
 最近ベストセラーを書いた養老氏の言葉を借りれば「馬鹿の壁」があたるのかな思いますが、折角の人生の豊かさを与えてくれる趣味ですので。私自身も注意したいなあと思ってます。

 折角の短い人生ですのでより楽しむか楽しまないかも自分次第だと私は思っています。

 良く思うのは、ビジネスとしてのCDは売れるという最低限の基準は満たしているのでひどい演奏なんかは存在しないが、自分の趣味に合うか合わないかであって、馬鹿の壁において駄目としてしまうことはもったいないことだなと思います。但し、売れるものが全てではないということも逆に言える訳です。
 まあ、クラシックの業界なんていうのはポップスなんかに比べたら小さいものです、2000〜3000枚売れればなんとかペイしてしまいます。

 歌ってもらうとその人の響のイメージが大体解ります。語弊はありますがその人のしゃべり方と演奏というものは結構同じソノリティーを持ってます。特にアマチュア奏者は特に声やしゃべり方と音がかなり一致してしまうのは面白いところだと思います。
 結局は響に対する感性というか経験がしゃべる/歌うのほうが不自由ではない場合が多い訳でソルフェージュ能力も含め、楽器演奏はそれ以上にはならない場合が多いようです。つまり音や響のパレットが少ないし、意図した瞬間に頭に先にイメージ出来ない音は楽器でも出てこないということなのです。

 つまり「こういう音を出したい」「こういう響を出したい」という具体的イメージが頭にない音は楽器から勝手に出ることはないのです。


味ー水と塩ーおいしい
 純水はおいしいと感じられますか?
 私も1、2度、試しに飲む機会がありましたが、所謂、味覚や感覚を刺激しないので、「おいしく」感じませんでした。

 なぜ最近は各国、各地域のミネラルウォーターがさかん売られ飲まれているのでしょうか。硬水、軟水の区別はもとより、活性酸素をどうしたこうしたで飲むと健康になるとか、それで焼酎を割ったりすると悪酔いしないとか、いろいろなものがあります。お米を岩清水で炊くとおいしいとか、コーヒーもその味がまろやかになったりおいしく感じたりする訳です。

 それを分析してみれば、どの元素が多いとか分子構造がとかに違いがあったりいろいろ判明はしますが、人間はまさに「鋭敏で愚鈍な感性」で、おいしいと判断している訳で、絶対においしい水というのは各その飲み手によっても、その利用方法によっても変化し、まさに絶対においしい水(他と比較しても)というものは発売されません。それよりも実際に自然から湧き出てきたり岩盤というフィルターを長い間かかって出てきた水を(実際は様々な売る為の処理方法はあるにせよ)使って売っている訳です。
 つまり、その人間の感性による判断を科学的に分析することや同じようなものを作り出すことはあっても、分析や器械ががこれがおいしい水ですよ、といって初めに創り出す訳ではないのです。
 ハイビジョンを開発しその規格を作ってゆく過程で、昔みたXプロジェクトによると、人間はどういうもの(捜査線の数や色の構成において)に美しいと感じたり、質感を感じたりするのか、という研究が最初のテーマだったそうです。まさに人間がどのように感じるかを統計的に解明してそれを科学技術で実現するという開発過程な訳です。

 オーディオにおいても人間が生の音楽を聴いてなにに感動するのか、美しいと感じるのかを研究したり、また再生装置においても、何を自然と感じたり、音楽を楽しんだり、わくわく感じたり、活き活きとして音楽を感じることが出来るのか、というアプローチを優先させ、それを電気的な理屈や振動であるとか様々の現実要素を活用していったほうが良いのではないかと思います。
 つまり、各社によってその開発過程や目標値、アプローチは様々だと思いますが、現在各社がスペックとして公表している数値をみてどんな音が出てくるかが分からないように、数値目標自体の項目にしても電気の理屈だけで全てが解決するわけもないのはメーカーだって知っているでしょうし、最終的にはそのメーカーの人間や外部の人間も含めて耳で判断しているようですが、その数値目標を壊してまでそれによって開発当初に出戻るということはないのではないかと思います。
 現代の科学技術の粋をあつめても人間は人間の脳や身体の全てを解明した訳ではありませんし、地球に関しても全ては分からない、当然宇宙は未知の世界であるわけです。
 別にオカルトや宗教ではないのですが、人間には第6感というものがあるようで、それはもしかすると第6感ではなく、5感や経験の積み重ねが脳によって総合的に判断され予測という部分に至るのかもしれませんが、様々な現代の科学技術では解明しきれない能力や現象というものがあることは否定出来ないと思います。
 証明できないから存在しない、存在しない証明が現在の理論で説明すると存在しない、というだけなのではないかと思います。

 まあ、ここでその議論をするのが目的ではありませんのでこのへんにしておきます。
 ここで私が重要だと考えるのは、結局、音という抽象的なものは最終的には現段階としては開発システムと音を最終決定する人間の耳や感性をきっちり磨くこと、その感性を高める教養や音楽への興味とその経験を沢山持っているようなことからくるセンスの方がヴォイシングしたほうが良い結果が出ることが多いということです。
 つまり、会社の決済システムや開発プロセス、意思決定過程がそのセンスが生きないようにしているメーカーでは魅力ある音の商品が出来にくい。またその音の最終決定者のセンス次第であるということです。スペックや開発目標項目そして数値はその開発過程では利用すべきところはすべきと思いますが、人間が音楽をどのように感じるのかの観点を抜いてしまった数値項目や数値で押し切るのは難しいということだと思います。
 こういう数値を達成した、だからこの音は良いハズである。というような論法は否定はしませんが、私には魅力的な音に感じないものが多いとだけは言えます。

 やはり音楽においても「鋭敏かつ愚鈍な偉大な感性」の人間が本来もっている感性を前提に書かれ演奏しているのと同様に、その再生においてもその部分を理解していないと魅力ある商品は産まれにくいのだと思います。だから、判断されるユーザーである皆さんが結局音で判断するしかないのだと思います。
 但し、人間は100人いれば100通り、同じ感性の方はいませんので、自分の感性を信じるか、人間だって変化しますので、経験や教養でその感性の感度を磨くことが、自分の気にいった音を選び、作り出すのにはもっとも重要なのだと思います。
 絶対ということはありませんので、自分なりの価値観をきっちり見つめ確立し、またそれらの優先順位を明確にもつことで、自分の理想の音づくりに取り組めるのではないかと思います。
 オーディオにおいては生の演奏における感じを知った上でオーディオ的な生では絶対に聴けないようなバランスを能動的に実現し楽しむことも、生と同じようなバランスに近く構築することもされると、偏向した方向へ無意識に行ってしまうのを避けられるのではないでしょうか。言ってみれば、人間が目を閉じて、真直ぐに歩こうとしても、結局は利き足の関係でグラウンドに円をかいてしまうのと同じではないでしょうか。
つづく。

オーディオと音楽の交差点 第3回
四弦亭酔響
2003/10/17
  (無断転用転載禁止)
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