ジャズ・オーディオの雑記帳
 by 6041のS
幸運を招く脳力(12月1日)

お昼にテレビを見ていたら、水谷豊主演の相棒というドラマをやっていた。殺人事件をみごとな推理で次々と解決する刑事の物語で、今テレビの人気番組の一つだそうである。今日の話の中では、ピアニストが殺され、犯人がピアノの調律師であることをいかに推理して突き止めるかという話である。この刑事はピアノが弾け、しかも調律師でも気づかない音の微妙な変化を感じ取り、それが事件解決の手がかりとなってゆく。少々話しが出来すぎで信じがたい。そんな刑事いるかよ、と思ってしまう。それでも仮定として、一流のピアニストであれば当然気づくであろうと思うし、そのピアニストがたまたま刑事であればこの話は成り立つ。もしこのような偶然が重ねれば事件を解決するという幸運を招くことになる。

幸運を招くチャンスは4つのタイプがあるといわれる。(この話は京都大学霊長類研究所の所長、久保田競先生の講演で聞いたものである)
1)棚ボタ
自分は何もしないのに、棚からボタ餅が落ちてくる。すなわち思いがけない幸運に恵まれるというチャンスである。
2)イヌ棒
犬も歩けば棒にあたるというわけで、行動することで積極的に幸運を招くチャンスが得られるもの。あまり深く考えて行動するわけではないが、とにかく積極的に行動することによって得られるチャンスである。
3)ガルバニ
ガルバニ電池のあのガルバニである。彼は筋肉が動くメカニズムについて日頃から強い関心を抱いて研究していた。あるとき池の鉄柵にとまっていた蛙の足が、雷の電気で反射的に動くのを見て、筋肉は電流が流れることによって動くということを発見したのである。すなわち、常日頃からあることに問題意識を持って深く研究するという態度で臨むことによって、訪れたチャンスで幸運を手にするのである。フレミングがペニシリンを発見したのもこういったチャンスをものにしたのである。
4)セレンディップ
一つの優れた能力だけでなく、その人の全人格を通しての高い見識が幸運を物にする。しばしばアルタ・ミラの洞窟の古代の壁画を発見した、地質学者でアマチュアの考古学者でもあるマスセリノ・サウトゥオーラの話が例に挙げられる。「1879年のあるとき彼は幼い娘のマリアとピクニックに来ていた。遊んでいる娘が見えなくなり心配していると、お父さん!牛よ!牛よ!という娘の声が洞窟より聞こえ、中に入ってみると、娘が天井に描かれた壁画を指差して「アルタ・ミラ」(上を見て)と言った。そこには野牛の絵が描かれていたのである。その絵を見て彼はそこに描かれている野牛が、現存していないもう絶滅したものであることに気づき、専門の地質調査などをするうちに、これが旧石器時代のものであることを発見したのである。だが当初は誰も彼の話を信じなくて、自作自演の作り話と疑ったのである」
専門知識だけでなく、深い趣味を持ち、子供のような好奇心があるとセレンディップなチャンスを物にすることが出来る可能性がある。さしずめ、あの刑事はセレンディップな脳力の持ち主であるのだろうか。誰もが信じがたいようなことをやってのけるのは。

皇帝の中の皇帝(12月2日)
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ぼくは年に数回づつクラシックの演奏会に出かけているが、不幸なことにベートーベンのピアノ協奏曲第5番の演奏を聞いたことがない。過去に2回くらいチャンスはあったのだが、いずれも都合がつかず聞き逃している。もちろんLPやCDで20枚くらいは持っており、色々と聞いているがどうしても生演奏が聞いてみたいと思っている。ぼくの持っているアルバムの主なものをあげると、ルービンシュタインとバレンボイム、ゼルキンとバーンスタイン、グルダとホルスト・シュタイン、バックハウスとクレメンス・クラウス、ツィマーマンとバーンスタイン、ギレリスとセル、グールドとストコフスキー、ケンプとライトナー、フィッシャーとフルトベングラー、内田とザンデルリング、ペライヤとハイテンクなどである。
ぼくはこれらの演奏はみな好きであるが、それでも皇帝の中の皇帝と思っているのは、ルービンシュタインとバレンボイムの演奏である。彼はその前にもラインスドルフ/ボストン・シンフォニーと競演したものがあるが、この80歳を過ぎてからのバレンボイムとの演奏が素晴らしい。出だしのカデンツァからして驚きの連続である。ゆったりとしたテンポで一音一音を豊かに響かせて、しかも豪華絢爛なのである、こんな演奏は聞いたことがない。この演奏では、このピアノの老大家が悠然と自分のやり方で演奏し、バレンボイムがそれにあわせてオーケストラをリードしたに違いないのである。これ以外には、溌剌としてダイナミックなグルダの演奏も好きだし、グールドの演奏も面白いと思っている。

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先月の19日に豊田市のコンサートホールで、サラ・チャンのバイオリン、マリス・ヤンソンス指揮/バイエルン放送交響楽団の演奏するメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を聞いた。例によって最前列である。サラ・チャンは演奏が始まると、まるで伝説のジネット・ヌヴーの鷹の目のような鋭い目でヤンソンスに合図を送ったり、受け取ったりしながら、独奏者用の狭いスペースの中で大きな足音を立てながら、前へ行ったり、後ろに下がったりしてリズムをとり、コンサートマスターにさあ一緒に合奏するぞと、ばかりにアイ・コンタクトをしたりと、まるでドラマを見ているような縦横無尽の活躍であった。その奏でる音はスピード感あるダイナミックな演奏で、優雅なイメージのメンコンとは一線を画するもので、ぼくは十分楽しんだ。ただCDでこの演奏を聴いたらどう思うかは難しい。
ぼくがベートーベンの5番のピアノ・コンチェルトの生演奏に期待しているのは、こうしたドラマを見ることかもしれない。ぼくが好んで聞く演奏は、独奏者と指揮者のあいだに緊張関係を感じて演奏されているものが多いである。(偶然の一致かもしれないが)極端な例では、グールドと一緒にベートーベンの2番を演奏したバーンスタインは、演奏後に聴衆にこの演奏は私の意図するものとは異なると釈明したという。
ベートーベンのピアノ協奏曲第5番の生演奏を聞く楽しみは、まだまだ当分続きそうである。


吉田秀和さんの本(12月3日)
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ぼくはジャズとかクラシックについて書かれた本はたくさん読んでいるが、クラシック音楽について語られた本の中では、吉田秀和さんと宇野功芳さんの書かれた本を好んで読んでいる。これ以外にも辞書のような使い方をするのは、志鳥栄八郎編著による「大作曲家とそのレコード」(全3巻)と音楽之友社の「名曲解説全集」(全24巻)である。
吉田秀和さんの本では、昭和56年から58年にかけて新潮文庫より出された「LP300選」「世界の指揮者」「世界のピアニスト」の3冊が、ぼくが最初に読んだ本である。これがきっかけで、ぼくは吉田秀和さんの本を機会があれば購入している。それも文庫本だけでなく単行本も、である。新本では入手しにくいものは古本で買っている。それでもまだ25冊程度しか持っていない。古本は主として名古屋のパルコの前にある人生書房という古本屋を利用することが多い。この古本屋は規模の割りに、音楽とか絵画といった芸術関係の本が多く置いてあり、機会があれば覗くことにしている。
ぼくが吉田秀和さんの本を好む理由は、その音楽評論の方法が好きだからである。ある作曲家の作品なり演奏なりを、こういう理由で好むもしくは好まない、と態度をはっきりさせ、なぜそうなのかを、その作品の構成の仕方、作者はなぜそういうふうに作曲したのか、推理しそれを証明して見せる。その文章の構成方法というか、作者自身の広く深い音楽への造詣に裏打ちされた、判断の見事さにある。
ぼくもかつては自動車開発に携わる技術者であったので、それを例に話をすると、競合メーカーが新車を発表すると、その調査をする。設計者であれば、その鉄板による板組み構造を見て、この部分は軽量化と強度の両立が大変うまく設計してあるとか、この構造では、防錆には優れているが作業が大変であるとか、判断できるのである。さらに、ここまで神経を使った構造になっているということは、各部署の連携がうまくいっているとか、われわれの設計方法を研究したなとかわかるものなのだ。これは腕の良い設計者であれば、あるほどそうなのだ。
ぼくは音楽理論の専門知識も持っていないし、楽譜を見てメロディーが浮かぶこともないが、吉田秀和さんの評論なり解説なりを読むと、確かな専門知識に裏打ちされた洞察力を感じることが出来、その発想の仕方に共感できるのである。だが、私自身の知識の欠如によって付いていけない部分が多いのも事実である。
宇野功芳さんについて、ここでは多くを述べることはしないが、チョン・キョン・ファとブルックナーの音楽に対して、私は大きな影響を受けたと書いておこう。


随筆集「海辺のそよ風」(12月4日)

ぼくが1999年から、ここに書いているような日記風の雑文を書くようになったのは、小林玲子さんの随筆集「海辺のそよ風」を読んで、こんな文が書けるとすばらしいなと思ったからである。もちろん今でも、その足元にも及ばないような駄文しか書けないが。それが1999年の初めであった。著者には申し訳ないが、ぼくはこの本をブックオフで100円で購入したのである。中身も見ずに、そのうす緑色の布製の上品な装丁と、さわやかな水色で印刷された紙のカバーと、題名にひかれてのことで、小林玲子さんがどのような方かまったく知らないままに。

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本の帯には彼女のことを「中部経済新聞の「閑人帖」レギュラーメンバーの小林玲子さんは、西尾市在住の童話作家であるが、当欄でも、時の流れ、四季折々の便り、身近な出来事などを綴った軽妙でありながら心をうつ筆運びは、多くのファンを持っている。・・・・・」と紹介されており、帯裏には彼女の随筆の一節が紹介されている。「「たいくつ」するということと「ぼんやり」するということは似て非なるものである。ぼんやりするのは心をゆったり開放して、自己を自然と同化することである。心は退屈していない。鳥の囀り、雲の流れ、草木の揺れる中を逍遥するのは、自然と語り、自分と語ることである。人間にはこの時こそが宝である。「閑人帖」の閑人とは、まことに有り難く貴重な時をもつ人のこと。社会の宝とでも嘯いておこうか」この地方の人らしく、西尾、碧南、安城といった地名やこの地方出身の人名も多く出てくる。
ぼくが1999年から2000年にかけて書きとめた雑記、B5の大きさで100ページほどの内容を、一冊だけ自分で製本し「耳を澄ませば音楽が聞こえる」というタイトルをつけたのも、また、一つの雑記の文章の長さを、400字詰めの原稿用紙3枚程度を目安にしているのも、たぶんにこの随筆集を意識したものである。
このように形式的なことは手本があればある程度まねることが出来るが、難しいのは感受性である。「ぼんやり」して自然と語ったり、自分と語ったりは、簡単には出来ないのである。ぼくの場合は、意識して「ぼんやり」しても、難しい。才能には天性のものと、訓練である程度出来るものとに分かれるが、ないものねだりはあきらめて、訓練で出来る範囲で感受性を高めようと思って、なるべく毎日文章を書くようにしているのである。
三河地方の皆さんは、小林玲子さんの地元でもあり、新本で手に入らないときでも、古本屋を探せばこの本は見つかると思いますので、仕事で疲れたときなどに、気分転換として読まれることをお勧めします。きっと感受性が増すことでしょう。

追記
SUNVALLEY AUDIOの大橋店主のご好意で、ぼくの雑記を「ジャズ・オーディオの雑記帳」というタイトルで掲載していただいているが、ぼくが文章を書くようになった経緯は以上のようなものなので、ジャズ・オーディオに必ずしもこだわらずに雑記を書いています。単なる雑記帳として読んでください。


おれたちのジャズ狂青春記(12月5日)

ぼくはこの夏から、1週間に3回くらい、知立市にあるジャズ喫茶「グット・ベイト」(Tel:0566-81-9851)に顔を出している。それも開店すると30分以内というのが多い。今年の夏頃からそうしている。夏は夕方の4時頃から、また畑で一仕事ということになるので、その前、暑い盛りに顔を出していたのだ。この時間帯はあまり客もいなく(ジャズ喫茶が全盛の頃は、外で並んで待っているお客さんがいて、開店と同時に満席となったそうである)、たまに見えるお客さんは、ぼくにとっては興味ある人達が多い。(レコードをこの店で販売している人、ジャズの中古レコードを収集していて定期的に顔を出す人、ジャズの好きな主婦、先生、会社役員、マスターの若い頃からの友人、などなど)

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ジャズを聞き来るお客さんがいる時は、静かにレコードを聞いたり、店頭販売のLPをチェックしたり、置いてあるジャズの雑誌を読んだりしているが、他のお客がいない時はマスターと話をしていることが多い。
一番多いのは、中古LPの情報である。どこでどんな中古LPを手に入れたかという情報交換である。もっとも、この趣味は、駆け出しのぼくに対して、マスターの方はずっと経験が豊富で、ぼくが情報を貰うことが多く、最近特にクラシックのLPが多く集まったのもマスターのおかげである。(リサイクルショップでいかに安く買うかを競っている)それからグット・ベイトに来るとわかるのだが、この店は1960年代にタイムスリップしたようなノスタルジーを感じる店である。店を改装していないので古いままということもあるが、置かれている機械式の柱時計のようなアンティークや、LPを保管している手作りの棚、LPを入れている廃品を利用した段ボール箱など、お金をかけずにマスターが皆手作りしているのである。マスターのやり方を真似ると安く出来ることが多いので、そのノウハウを教えてもらう。それからオーディオの話、マスター自身の豊富な経験と同時に、ここに見えるお客さんの色々なオーディオ趣味の話、などなど・・・・・
昨日マスターが店の奥より、やっと見つかったよと言って、一冊の本を取り出してぼくに貸してくれた。「おれたちのジャズ狂青春記、ジャズ喫茶誕生物語」これは全国有名ジャズ喫茶のおやじ33人が綴った笑いとペーソス溢れる青春物語、と帯に書いてあった。今ではジャズ本の執筆者でも知られるメグの寺島靖国さん、イーグルの後藤雅洋さんなどが名を連ねている、もちろんグット・ベイトのマスターも執筆している。1991年の7月の出版であり、多くのジャズ喫茶が1950年代、60年代のジャズの全盛時代にオープンしており、執筆時にはブームも過ぎて経営的にも苦しくなってきた時であり、身につまされる話もある。
マスターの書いたものを一部抜書きする。「ジャズ喫茶といえば「変人のマスターに変人の客が集まる店」と言われる。後者に関してはなんら反論はない。しかし一種異様なマスターがいて店内に入りづらい、と言われるのは心外である。中で待っている者の方が、はるかに怖いし不安である。・・・・・実際にこんなお客様が現れた。「何も注文せずに二時間以上もいたお客様」「コーヒー代を値切ったお客様」「毎夕のマラソンコースに店内一周を加えたお客様」「店内で自分のズボンに火をつけ焼身自殺を図ろうとしたお客様」・・・・・ぼくの雑記帳を読んでくださる方(普通の皆さん)、機会があればグット・ベイトに寄ってみて下さい。


ローランド・カーク(12月6日)

今日も、昨日に続いてジャズ喫茶「グット・ベイト」の話をする。
ぼくが知立にジャズ喫茶「グット・ベイト」があることは、1960年代には知っていた。学生時代には、東京新宿にあった「ポニー」とか京都の「シアンクレール」とか、名前も覚えていないが、色々なジャズ喫茶に出入りしていたから、ジャズ喫茶というもが何たるかは知っていた。それでも地元、知立にあるジャズ喫茶に行かなかったのは、理由があった。たまたま、確か講談社の本だったと思うが、全国ジャズ喫茶のマスターのフェイバリット・アルバムの紹介を読んでいたら、そこに「グット・ベイト」が紹介されていて、アルバート・アイラー、エリック・ドルフィー、ローランド・カークといった、ぼくがその音楽を聴いたこともないような、アバンギャルドとぼくが思っていたメンバーの名が連なっていたのである。当時のぼくは、アート・ペッパーやビル・エヴァンスなどを好んで聞いていたので、これはぼくの行くところではないと思ったのだ。マスターから借りた「おれたちのジャズ狂青春記、ジャズ喫茶誕生物語」という本を読むと、マスターがジャズを友達からはじめて紹介されたのが、アルバート・アイラーだというから、なるほどと納得してしまった。そのマスターも今では、お客様第1に考えて、レスター・ヤングの演奏をかけたり、ビル・エヴァンス、チック・コリアの演奏をかけたりと、色々と気を使っているようである。

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そんな昨今の「グット・ベイト」であるが、今日、ぼくが店においてあるLPレコードをあれこれと見ていたら、Uさんという方がお見えになって、マスターに頼まれたというDVDを持ってきた。ほかにお客もいなかったので、そのDVDをテレビで観賞し始めた。それが何とローランド・カークの演奏である。ローランド・カークというと、リード楽器を3つも4つも口にくわえて同時に鳴らし、咆哮するというイメージがあり、グロテスク・ジャズといわれたこともあった人である。ぼくも釣られて、見るとは無しに見ていたのだが、これがなかなか良いのである。単なるライブの映像ではなく、彼の演奏にあわせて、狼が遠吠えしているシーンが出たり、多くの子供がおもちゃのラッパを吹き鳴らしたりしているシーンが出てくると、彼の演奏のイメージが大変よく理解できるのである。
彼がどんなエモーションで持って、今演奏しているかを理解できるのである。これはぼくの勝手な理解であるかもしれないが、彼が何かを表現しようとする大きなエネルギーを内に秘めていて、それをジャズという音楽を通して音にしているのである。時には大変美しいメロディーを紡ぎ、時には咆哮するサウンドで。そんなふうに感じると、彼が表現しようとしていることが、理解できたような気になり、なかなか良いではないかと思えてくるから不思議である。

ぼくは今、ローランド・カークの「ローランド・カーク・イン・パリ」というアルバムを聞きながら、この雑文を書いている。


カサブランカの花(12月7日)

「カサブランカ」という名を聞いて何を連想するか。スペイン語で「白い家」というような意味だそうだが、モロッコの都市名から映画を思う人もいるが、ここではユリの花のことである。この花は、我が妻の好きな花である。花を買うなどということは過って無かったが、ある時妻のリクエストでカサブランカを買い求めて以来、我が家では花を買うといえばカサブランカである。
色は純白色の大輪である。香りも強く、一本あれば部屋中にすがすがしさが満ちてくる。このユリは日本の山ユリ等をもちいてオランダで改良された品種でオリエンタルハイブリッド系に分類される。今日本で一番人気のある切花のユリである。ちなみに二番目はマルコポーロという薄いピンクのユリである。
ユリという花は水さえきちんと替えれば、すべてのつぼみが開花する強い生命力を持っている。ひとつ厄介なのは花粉である。これがつくと取れない。擦っても、水洗いしてもだめである。ガムテープを使うのが比較的良いくらいである。
カサブランカの花言葉は高貴である。当分この花を越えるものは出ないといわれている。

あなたはカサブランカの花のように

あなたはカサブランカの花のように、清楚で艶やかである、
朝の光のようにやさしく、あかるい、
若葉のように、萌え出でてみずみずしい、
泉のように澄んだ瞳を素直に開いている。

あなたはまひるの街をわたしといっしょにあゆむ、
夕もやのなかで優しくわたしをつつんでくれる、
暗い影ではわたしの行く道を照らしてくれる、
あなたはわたしのさわやかな風、熱い息

あなたはわたしの願い、わたしの思い
わたしはあなたを感じる、風のふくたびに、
あなたを思う、どこにいても、
あなたにくちづけする、艶やかな香りのするたびに。

あなたは若葉のように、萌え出でてみずみずしい、
泉のように澄んだ瞳を素直に開いている、
カサブランカの花のように、清楚で艶やかである、
朝の光のようにやさしく、あかるい。

ズート・シムズ(12月8日)
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・ズートが言葉に窮するということはまずなかった。一人のファンに「そんなに酔っぱらってよく演奏できますね」と言われたとき、ズートはこう答えた。「それはね、普段から酔っ払って練習してるからさ!」
・ズートはある日の午後、ダーク・スーツを着てジム・アンド・アンディーズ・バーに現れた。白いシャツにネクタイをしめている。ズートは昼間、いつもはコーデュロイのズボンに野球のジャケットといった格好をしているのだ。「ようズート」と誰かが尋ねた。「こんな真っ昼間からめかし込んで、いったいどうしたんだよ?」ズートはネクタイをしめ直し、隙間のあいた歯をにっと見せて笑った。「俺にもわからないよ。目が覚めたらこんな格好だったんだ」


上の二つの文は、ビル・クロウが書いた「ジャズ・アネクドーツ」村上春樹訳に載っている、ズート・シムズに関する逸話の一部である。ズート・シムズは酒さえ飲んでいればご機嫌の、たいへんひとの良いジャズマンで、作曲とか、編曲、バンドのリーダといった事には関心がなく、テナー・サックス1本でジャズを吹いてきた。その演奏は、彼の人柄を反映してたいへん暖かい。まさにテナーを吹くことが生きがいの職人である。そんな彼の演奏を聴くと、ぼくはリラックスできるのである。ズートのアルバムはどれもこれもみな好きであるが、ぼくが好んで聞く曲が入っている彼のアルバムを紹介する。

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・クッキン
1961年にロンドンのロニー・スコット・クラブでライブ録音されたもので、ここでの枯葉の演奏が、ぼくの最も好きな枯葉の演奏である。


・ズート
9:20スペシャル;ズートの快調なテナーが心地よい
ボヘミヤ・アフター・ダーク;ここでは珍しくアルト・サックスで演奏しているが、これがまたすばらしい。


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・イフ・アイム・ラッキー
イフ・アイム・ラッキー、ユーア・マイ・エヴリシングこの2曲でのゆったりとしたバラードプレイはいつ聞いても心が和む。


・ズート・シムズ・アンド・ザ・ガーシュイン・ブラザーズ
サマータイム;テナーとともにジョー・パスのギターも光る。


・ユタ・ヒップ・ウィズ・ズート・シムズ
コートにすみれ;いつ聞いてもこの哀愁はたまらない。
ズート・シムズには、アルバム「ダウン・ホーム」も含めて、まだまだすばらしい曲がいっぱいあります。

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ベートーベン弦楽四重奏曲嬰ハ短調(12月9日)

剣豪作家の五味康祐さんが書いた本に、「五味康祐 音楽巡礼」「五味康祐 オーディオ遍歴」という本が新潮文庫で出ていた。音楽巡礼のほうはのちに「ベートーベンと蓄音機」という題名で角川春樹事務所よりランティエ叢書として再出版されている。この音楽巡礼の中で五味康祐さんは、たった1曲だけ音楽を選ぶとしたら、このベートーベンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調(作品131)を選ぶと述べている。諦観の最も澄んだ境地がこの作品にあると。ぼくはそれまで弦楽四重奏曲を、抽象的とかオーディオ的に面白くないとか言って避けていた、要するに理解できなかったのである。これが、ぼくが弦楽四重奏曲を聞いてみようと思ったきっかけである。今から10年くらい前の話である。

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まったくの偶然であるが、ぼくはたった一枚弦楽四重奏曲のLPを持っていたのだ、それもベートーベンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調である。SUPRAPHONより出された、スメタナ四重奏団による1970年録音の演奏である。これを、やはりよく理解できないままに、時々取り出しては聞いていた。あるとき、夜中に、周りを気遣って音をいつもより絞って、その分集中して聞いていた。冒頭の出だしから聞こえてきたのは、ベートーベンの祈りの声だ。モーツァルトの音楽が天使の祈りの音楽であるならば、ベートーベンの音楽はまさに人間の祈りの音楽だ。諦観と言ってよいかどうかは、分からないが、幾多の困難を乗り越えて、在るがままにといった心境に到達した人の、静かで、強く、敬虔な祈りであると思った。とにかく澄んだ、心洗われるような音楽が聞こえてきたのである。それにしてもたった4丁の弦楽器で何と広い大きな世界を表現できるのであろうか。この感動がぼくを弦楽四重奏曲のとりこにしたのだ。
こうなると他の演奏者の14番が聞きたくなってきた。もうLPは発売されていないのでCDで色々と探した。アルバンベルク四重奏団、バリリ四重奏団、ベルリン四重奏団、ブッシュ四重奏団、ロゼー四重奏団、ブタペスト四重奏団、レナー四重奏団、メディチ四重奏団、ガルネリ四重奏団、ハーゲン四重奏団などの演奏である。夢中になっていろいろな演奏を聞いていると、その表現の違いの大きさや、各団体の特徴がわかってきて、自分の好みも理解できた。
次にベートーベンの12番以降の後期四重奏曲に的を絞って聞き出した。強く引かれたのはアダージョである。ここでベートーベンが書いたアダージョは本当に素晴らしい。第12番では第2楽章に変奏曲として構成されている。第13番では第5楽章が有名なカヴァティーナである。「私が書いた一番感動的な曲」とベートーベン自身が言った、短い嘆きのカヴァティーナである。第14番は曲全体が、最も神秘的で、最も清澄で、最も非地上的な四重奏といわれ、その中でも第4楽章が素晴らしい。第15番では第3楽章がそうである。「病癒えた者の、神に対する聖なる感謝のうた。リディア旋法による。」と解説している。広い心の世界である。第16番では第3楽章がそうである。深い悲しみに声もなく涙して、という感じである。喜びとか、感謝とか、嘆きとか、悲しみとかいったものをこのアダージョで表現しているが、もうここでは大きな声を出す事もなく、本当に静かである。
いまでは、ベートーベンだけでなく色々な弦楽四重奏曲を好んで聞くようになったが、そのきっかけを作ってくれたのが、五味康祐さんであり、ベートーベンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調(作品131)である。


バリリ四重奏団(12月10日)
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ぼくが弦楽四重奏曲を聞くようになったきっかけについては昨日述べたが、当時の弦楽四重奏団と言えば、ウィーン・アルバンベルクSQ、スメタナSQ、ジュリアードSQ、ベルリン(スズケ)SQといったところが活躍していた時代であり、ぼくもアルバンベルクSQやスメタナSQを好んで聞いていた。当時から今も続いているが、本のリサイクルショップ・ブックオフを見てまわるのがぼくの楽しみの一つであり、豊田に新しく店ができたということで出かけていった時に、たまたまCDコーナーで見つけた3枚がバリリ四重奏団の演奏する、ベートーベンの4番、5番、6番と10番、12番および13番のアルバムだった。安さにつられてすべてを買い取ってきた。

その時にはバリリ四重奏団というのがどういう団体であるのか、正直に言ってぼくは理解していなかったが、演奏を聴いて驚いた。今まで聞いていたどの演奏とも雰囲気が違うのである。ぼくはベートーベンの初期の弦楽四重奏というのは今まで聞いたことがなかった、というより聞いてこなかった。それがバリリの演奏で聞く4番、5番、6番は、じつにしなやかで柔らかく、ベートーベンの初期の若々しい感覚をたいへん見事に表現しているではないか。思うに音楽の表現は、技術的に優れていることも大切であるが、それ以上に演奏する人の心の揺らぎが伝わってこそ、人に感動を与えるのではないか。バリリの演奏は決して理屈っぽくなく、自然体で音楽の喜びにあふれているといったら言い過ぎであろうか。同じことが他のアルバムでも言えるが、特に12番の第2楽章のアダージョ、13番の「嘆きのカヴァティーナ」といわれる第5楽章の演奏は、ぼくのお気に入りである。

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一つ気になることがある、それはCDの音である。ウエストミンスターの音源よりビクターが20bit SUPER CODING という方式でCD化したものであるが、音の輪郭ははっきりしているが、響きが足りないように思える。ワルター・バリリのバイオリンがやや硬く聞こえるのである。ずっとそのことが気になっていたのであるが、先月例によって中古レコードあさりをしていたらなんとバリリ四重奏団のLPが見つかったのだ。1968年にキングレコードより発売された、バリリ四重奏団の芸術・ベートーベン弦楽四重奏曲全集第1巻で1番と2番の演奏が録音されたものだ。期待に胸を膨らませながらレコードに針を落とした瞬間、スピーカーから流れてくる音楽を聞いて、この音だとぼくは思った。ウィーンフィルを連想させる、しなやかで柔らかく響きの良い音楽が聞こえてきたのだ。ぼくは安心すると同時にまた一つやるべきことが増えたような気がする。


雨が降るとアクリル樹脂が割れる(12月11日)

昔々ぼくがまだ会社に入社して数年目だった頃、自動車に使われる新しい樹脂部品の試験評価を担当していた。開発した新車を量産で作り出して数日が経った頃に、それまで続いていた良い天気が崩れて、猛烈な雨が降り出した。その時に完成車置き場においてあった新車のリヤ・コンビネーション・ランプを入れるアクリルケースにひびが入っているのが見つかった。なぜ久にリヤコンビのケースが急に割れだしたのか原因追求をすることとなった。
納入された部品の観察、部品がボデーに取り付けられてから車の完成までのラインにはり付いての観察などをして原因追求をしたが、答えが見つからず手詰まり状態となった。対策会議の中で誰かが、不具合発生の不良の推移を解析したら、雨が降り出してから急に不具合が発生している、今回のアクリル樹脂は水分とか湿度に弱いのではないか、その因果関係を実験せよと言い出した。そんなことは理屈に合わないと主張したが、ではほかにどんな原因が考えられるという議論になり、結局実験してみることになった。だがいくらやっても割れは再現しなかった。
気を取り直して、もう一度車が完成した後、完成車ヤードに出るまでの工程を観察すると、ガソリンを車に補給する工程があった。当時のモデルはリヤのナンバープレートの裏にガソリンの補給口があり、そこで作業者がガソリンを入れた後で、ノズルをはずす時にガソリンが1滴たれてアクリルカバーに流れていた。作業者にこのやり方はいつからかと尋ねると、自分は最近この作業に付いたと言ったので、前任者にやり方を訊いてみると、自分はガソリンがたれないようにウエスをノズルに当てていたという。交代した時期もちょうど雨が降り出した時期と重なっていた。これならば可能性があると思い、さっそく再現実験をしてみると、同じ所が実験室でも割れを発生し、これが原因と特定できた。
この経験でいろいろな教訓を学んだが、なかでも、人間はわからないことが発生すると、自分の経験に基づいて色々と解釈し理解しようとする。そのこと自身は大切なことだが、このケースの初期のようにその理解が誤った理解になることもある。そのリスクを最小限にするには何が大切かということを強く感じたのである。
まず理屈(ここでいう理屈とは、体系化された理論とか、学問の意味)に合わない事は起きないと言うことである。自分が思いつきで色々ひらめいても、それが理屈にあっているかどうかを冷静に検証するという態度が重要である。たとえ話として、熱力学という学問がなくてもエンジンは発明されたが、熱力学が発達したおかげで、エンジンの性能が著しく向上したのである、と言う。技術者は基礎知識をしっかりと身につけ、理屈を重視しなければならない。次に物は正直である、ということ。現地で現物をしつこいくらいに観察するという態度が重要。
もちろん今では、このようなことが起きても、その割れの破面を観察すればこれが応力による割れか、疲労による割れか、このケースのようなソルベントによる割れかは判別できるまでに進歩しているし、技術者の魂も先輩から後輩へと受け継がれていっている。だがぼくの趣味であるオーディオの世界を覗いてみると、勝手が違いとまどっている。多くのオーディオ雑誌を読むと、物を作っているメーカーの技術的な本音(苦労話)がほとんど聞こえてこないし、雑誌で解説してあることも第3者が検証できないことが多い。だから学問にならない。自分で直接体験するしかなかなか信用できないのである。

綿密な思考(12月12日)

ヒッチコックの代表作サイコとか、鳥といった映画を見ると、非常に緻密に計算されたストーリーが展開されている。何気ない場面が後になって大きな意味を持ってくる。さらに登場人物の性格描写が鮮やかで、理解しやすく、しかも印象的である。こういった作品と並の作家が書いた安物ドラマの違いは何であるか。良く判るのは、そこに登場する人物が、存在する人のように書かれているか、人格に矛盾は無いかであろう。緻密な計画で殺人を犯した者が、次には、通り魔的殺人を犯すのでは、同一犯としての行動に矛盾がある。とすれば作家は、登場人物についてそこに書かれていない部分、どんな趣味があるか、好きな食べ物は何か、休みは何をしているか等についても想像をめぐらせてイメージを作り上げるのであろう。

ぼくは作家のロバート・パーカーが書いている私立探偵スペンサー・シリーズの愛読者である。1作目の「ゴッドウルフの行方」から27作目の「ハガーマガーを守れ」までは読破した。最新作は34作目の「ドリームガール」まで日本ですでに翻訳されている。このシリーズには、すでに副読本までが出来ている。「スペンサーを見る事典」登場人物のバイオグラフィーからファッション、住んでいる家や街の紹介など、読んでいると、まるで彼ら・彼女らが実在しているような錯覚に陥ってしまう。「スペンサーの料理」これはスペンサー・シリーズでの食事をする場面を抜書きして、その料理に対して、解説をしてさらにレシピを紹介している。おまけにボストンを中心とした実在するレストランの紹介までもある。これらの知識をインプットしてこの小説を読むと、ボストンの街のどこに今彼らがいて、どこに行こうとしているのかが、まるで自分がその街に住んでいたことがあるようによく分かるのである。
これだけ綿密に描かれていても問題はある。これだけのシリーズが続くと、正直言って少々飽きてくるのだ。作中の人物も段々と年を取り、成長もしているのだが、その変化がまどろっこしく思えてくる。物事を続けるには、水戸黄門のように、偉大なるマンネリ化も大切であるが、一方では変化がないと退屈になってくるのだ。

というように、他人のやっていることは、冷静に見えてくるのだが、では自分はどうだろうかと思うと、これがはなはだ心もとないのだ。日常を安定的に生活するということと、日々成長する、何か新しいことにチャレンジするということを、どう折り合いをつけているか。どういう心の持ちようでこのことに向き合っているのだろうか。
ひとつのヒントとして、会社で仕事をしていた時のことを思い出してみると、常に何か高い目標を掲げてそれを達成するように努力する。そして自分に何が出来て、何が足りないか、良く考えて行動する。判断を他人に委ねるような、頼まれ仕事をするな、自分で判断せよ、不足している情報は自ら取れ、などと思考の訓練をしてきた。思うに、これもどれだけ緻密に考えられるかという事である。

少々疲れてきた。
モーツァルトの三重奏曲変ホ長調K498を聞きながら頭を休めている。
(ロベール・ヴェイロン(p)、ジャック・ランスロ(cl)、コレット・ルキアン(va)、エラート)

福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」(12月13日)
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書店を覗いていたら、新書本の今年のベストセラー一覧表が壁に貼ってあった。何が売れているのかと眺めていたら、何位か目に福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書という本が載っておりぼくの興味を引いた。店頭を探してみると、ここでも売れていると見えて平積みして置かれていた。手にとって、プロローグとエピローグを読むと、プロローグではこの本の主題となっている'生物とは何か'というテーマを考えるに至った著者の動機を語っている。エピローグでは、生物学者となった著者の少年時代の体験が語られているが、この文章が泣かせるのである。特にアオスジアゲハ蝶の話は、読んでいて感動する。さっそくこの本を買い求めた。
著者の福岡伸一さんは、1959年東京生まれで、京都大学卒、ハーバード大学医学部研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学教授、専攻は分子生物学である。
 ・生命とは何か!それは自己複製を行うシステムである
   ・DNAこそが遺伝子の本体である・・・エイブリーの業績
   ・PCRの確立(DNAの人工的複製法)・・・マリスの業績
   ・DNA構造(二重ラセン)の発見・・・ワトソンとクリックの業績ロサリンドの役割
 ・生命とは何か!それは動的な平衡状態にある流れである。
   ・生命は動的平衡状態にある・・・シェーンハイマーの業績
   ・動的平衡状態に関する著者の考察
   ・ノックアウト・マウスを用いた著者の仕事

本の内容を勝手に分類すると以上のようになるが、この本は、今日われわれが手にすることが出来る知識の単なる羅列や解説という書き方ではなく、それぞれの業績がいかにして成しえたかという、それぞれの研究者の苦労話が実に生き生きと書かれており、読んでいると思わず引き込まれてしまう。
生命とは何かという問いに対して、著者は'自己複製を行うシステムである'というだけでは不十分であり、それは'動的な平衡状態にある流れである'という立場をとっている。この信念は、著者の体験に基づく信念であり、生物の不思議に対する畏敬の念がこめられている。引き込まれて読み終わってみると、今日の分子生物学の最先端を垣間見せてくれる。
私たちの体は、食物をとることによって、単にエネルギーを得ているのみでなく、私たちの体を構成しているすべての分子が、定期的に置き換えられている。このことがエントロピー増大の法則から、我々を救い、直ちに訪れる死を免れている、等々、なぜ生物が'動的な平衡状態にある流れ'なのか興味は尽きない。
ここに述べられている、研究の方法、思考の方法なども大変秀逸で、特に若い技術屋の皆さんには一読することをお勧めします。
我々の体は原子に比べて、なぜ、そんなに大きくなければならないのか?シュレーディンガーの問い。・・・答えは本書に書いてある。


いわれなき悲しみ(12月14日)

ちまたに雨がふるように・・・・・・(ヴェルレーヌ)

ちまたに雨がふるように
ぼくの心になみだふる
なんだろう このものうさは
しとしとと心のうちにしのび入る

おお 雨の音 地上にも
たちならぶ屋根の上にも
この倦怠の心には
雨の歌 おお しずかなひびき

いわれなく なみだふり
いわれなく しめつける ぼくの心よ
なんと言う? 裏切りはないと言うのだね
いわれなく 喪にしずむ ぼくの心よ

いちばんわるいくるしみは
いわれもしれぬ身のいたみ
恋もなく にくしみもないというのに
ぼくの心は こんなにもくるしみにみちている
(橋本一明訳)

これは橋本一明訳のヴェルレーヌの詩の一節である僕は二十歳代にこの詩に出会ったときから、これを。読むと胸が締めつけられる思いがしてくる。自分では前向きに、明るく、一生懸命やっているのに、ある日いわれもなく悲しみを感じるのだ。そう、苦しみというよりも、悲しみなのだ。
そんなときにこの詩を静かに読むと、まるで僕の気持ちを代弁してくれているように思うのだ。そしてこのセンチメンタルを密かに楽しんでいるのだ。こんな精神状態を客観的に見れば、これは鬱状態としか言い様のない物かもしれない。
こういうときには、ぼくはジャズを聞く、ジャズからエネルギーを貰うのだ。ぼくの部屋にはこの詩が額に入れて置いてある、いつでも見たくなった時に見られるように。

ジャズのオリジナル盤(12月15日)

知立にあるジャズ喫茶「グット・ベイト」には、長年にかけてマスターが収集してきたジャズのLPが1万5千枚以上ある。それも可能な限りオリジナル盤でそろっている。だからLPの音源があるアルバムは、いまでもCDをかけない。ぼくもこのオリジナル盤を聞かせてもらって、時として、CDや国内盤のLPとのあまりの音の違いに唖然とすることがある。

オリジナル盤をなぜ重視するのかについて、インターネット上で「レコードとオーディオの部屋」(「レコードとオーディオの部屋」は閉鎖致しました。)というホームページを作っておられる、モアさんという方が次のように書いておられる。
ジャズにおいてのオリジナル盤は基本的に録音した国の初版プレスを言います。では、ジャズでは何故オリジナル盤を重要視するのか?理由としては下記のことが考えられます。

1.

その演奏を録音したエンジニアや演奏者自身を含む関係者がレコード制作まで関わっている場合が多いため制作者の意図した音質が得られる。

2.

録音テープは普通、元のテープからコピーしてマスターテープを作りそのテープをさらにコピー(孫テープ)で各国に配られるので音質が劣化しやすい。

3.

配られた先では各エンジニアの感性によって音が決められ事が多く音質がまちまち。レコード会社によってはメタルマザー(スタンパー)のままで各国に送り音質を確保してきた会社も存在する。

4.

50年以上経っているテープは元テープやマスターテープが痛んだり紛失したりで現在は孫テープをマスターにしたりレコード自身から音を録音したりしている場合が多い。

5.

テープ自信の劣化の問題で年数とともに中域が抜けてきていて中域と高域だけのジャズレコードCDがあまりにも多い。

6.

以上のようにマスターテープは劣化が激しいが、レコード溝は針キズなどの外的要因を除けば物理的変化は殆どなく、50年前の音質を保っている。

モアさんが書かれた1と3の項目との関連で、ぼくが感じたことを、あえて独断と偏見で述べるならば、オリジナル盤の最大の特徴は、中音域の圧倒的な充実である。国内盤を聞くと低域から高域まで満遍なく音が出てくるものが多い。オーディオ的にはハイファイであるが、音楽として聞いた場合、音が平板になってしまい、肝心なメロディーラインの中音域が前に出てこないので、音楽がヴィヴィットに聞こえてこないのである。
その次の特徴は録音レベルが非常に高く、細かい音まで聞こえてくる。例えば「キャノンボール・アダレイ・イン・シカゴ」というアルバムでは、彼の吹くアルト・サックスのリードの震えまで聞き取れる。残念ながら国内版では、こういう聞こえ方はしない。但し、録音レベルと関係しているかもしれないが、プチプチというノイズも多い。国内盤のほうがSN比は良い。でも良い音楽が聞ければ、多少のノイズは気にならない。
こういった事は、何を重視するかという価値観が関係しているのだろうと思う。些細なことにこだわらず、ヴィヴィットに音楽が聞けるというのが大切と思うのだが。音の違いは、オリジナル盤と国内盤の違いだけではなく、色々なケースがあるので、必ずしも高価なオリジナル盤に手を出さなくても、すばらしい音の詰まったLPを入手する可能性がある。モアさんのホームページはたいへん参考になります。

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