ジャズ・オーディオの雑記帳
 by 6041のS
菌類(糸状菌)とは何か(2011.1.17)

 今年も農ライフ創生センターより野菜の講師(ナスを中心)を依頼しますよ、という予告を受けた。2年目となるので、昨年の事を振り返りながら「ナスの栽培について」というレジメを準備し始めた。レジメを作りながら頭の整理をしていると、まだまだ底の浅い知識が多く深みがない。まだ時間があるので一つ一つのことを、専門書を取り寄せて調べている。
 例えば「植物の病気とその防除」について整理している。
 植物の病気を引き起こす原因は、

・菌類(糸状菌) ・植物の病気の80%は菌類(糸状菌)による。
・バクテリア(細菌) ・10%はバクテリア(細菌)による。(ナスの青枯れ病など)
・ウィルス、その他 ・植物には免疫機能がないのでウィルスにかかると治らない。

 というように、まとめているのであるが、では菌類とは何か定義を調べてみると。

・細胞壁を持つ真核生物
・基本構造は菌糸
・光合成をしない(分解・吸収による従属栄養)
・狭義にはカビ・きのこ・酵母であるが、広い意味では、いわゆる粘菌(変形菌・細胞性粘菌)、サカゲツボカビ類、卵菌類など(偽菌類)も含める)

 と言った特徴を持っている。きのこや酵母は直接我々の食生活の役に立っているが、多くのカビ類も植物を分解して土に戻したりして有用であるが、一部のものが生きている植物に寄生して病気を引き起こす。

 菌類の分類  代表的な病原菌
・鞭毛菌類
 ・ツボカビ ・ソラマメ火ぶくれ病菌
 ・サカゲツボカビ
 ・卵菌 ・ジャガイモ疫病菌
・ウリ類べと病菌
・接合菌類 ・サツマイモ軟腐病菌
・子嚢菌類 ・ウリ類うどんこ病菌
・トウモロコシごま葉枯病菌
・担子菌類 ・ネギ赤さび病菌
・ナシ赤星病菌
・不完全菌類 ・灰色かび病菌
・トマト葉かび病菌
・ナス半身萎凋病菌

 このような菌類の分類は、おもに有性生殖器官の形態によって分類されている。不完全菌類は無性世代しか知られていなく分類が確定できないもの、および通常は無性的に増殖するものを集めている便宜的な分類。
 これらの病原菌がどのようにして植物の体内に侵入していくか。植物の防御機能はどう働くか。防除のために使用する農薬の殺菌作用(呼吸阻害、核酸合成阻害、タンパク質合成阻害、脂質合成阻害)のメカニズムはどうなっているか。調べることはまだまだある!


「人類の星の時間」ツヴァイク(2011.1.31)

 どんな芸術家でもその生活の24時間がすべて芸術活動をしているわけではなく、多くの時間は日常的な生活を営み、その中で芸術家として輝く瞬間がある。人類が紡いで来た歴史も、多くはとるに足らない出来事の中で、後世に残る重要な出来事があるとき起きる。こういう歴史の中で、突然輝く星となった人物の運命的な瞬間を描いたのが、ウィーン生まれの作家シュテファン・ツヴァイクが書いた「人類の星の時間」と言う短編集である。ここで採りあげられているのは、太平洋の発見、ビザンチンの征服、ヘンデルの復活、ラ・マルセイエーズの作曲、ウォーターローの戦い、などの12編である。
 この短編集を読みながら、併行して読んでいたのが山岡荘八の「伊達政宗」全8巻、毎日新聞社である。こちらは御存知伊達正宗の誕生から生涯を終えるまでの歴史大河ドラマであるが、正宗という人物が幼くは虎哉禅師より教育を受け、さらに秀吉や家康に影響されどのようにスケールの大きな人物に成長して行ったかを、バックボーンとして描いているように思える。特に虎哉禅師は「生きていれば苦しさは絶対避けられぬ。避けられぬなら、苦しさを克服する方法を教えていく。それが教育というものだ」と説いている。また正宗自身の遺訓として「仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする」が残されているようであるが、これが小説の中でも使われている。
 読み終わった後に考えたのが、このような大きなスケールではないにしても、自分の今までを考えた時に、何か輝いたと思える時間があったかということである。一つ鮮明に思い出せる事があった。正宗が秀吉や家康という大きな壁にぶつかった程ではないが、ぼくにとって今までに無い大きな壁にぶつかった事がある。理解できず恐れ、悩み、そのストレスかどうかは分からないが体調まで崩した。そしてそこから逃れようとした。しかしある事がきっかけでもう逃げるのは止めようと思った。人には、それぞれに備わった器というものは一つであり、その中で精一杯努力すれば結果は付いてくる。その結果が如何であれそれが自分の実力なのだと。そう思ったら、逃げていたことで見えなかったことも、見えるようになり、今まで壁だと思っていたものがそうではなく、大きな道しるべだと思えた。

気ままに

ぼくは山が好きだ。
汗をいっぱいかきながら、
歯を食いしばって登ったあと、
山頂の雄大な眺めと、
可憐な花がいっぱい咲いているお花畑に、
身をおくと、とても幸せになれる。
だから、白山とか御岳といった、
山頂の広々とした山が好きだ。
もちろん槍ヶ岳のようなスリルのある山も、
嫌いではないけど。

ぼくは現在とても元気だよ。七年前のぼくを、
誰が想像できるだろう。
あの頃の、ぼくの心は空っぽであった。
それを取り戻すのに五年かかったよ。
でも今は充実しているんだ。
山頂に身をおいて、自由な気持ちで
気ままに、もう少し思索しよう。
ぼくを豊かにしてくれる、
すべてのものを愛することを。
このことを君に言いたかったんだ。

 数年たって書いたのがこの文である。随分と心が明るくなっている。やはりこれが限界だと思ってしまうと限界になってしまう。壁にぶち当たりそれを乗り越えようとすると、何がしか今までと物の見方が広がったり、深くなったり、良い意味の居直りができたりするようである。何よりも人を恐れる必要がなくなる。恐れないとそこに猜疑心が生まれず素直に信頼できるようになる。信頼関係が生まれれば物事はたいてい上手く行く。
 小さいとはいえ、このような経験ができたことはぼくの財産である。




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