ジャズ・オーディオの雑記帳
 by 6041のS
スタン・ゲッツの歌もの演奏 (2016.10.18)

 KATCHのFM放送で、SUNVALLEY AUDIOの大橋さんがパーソナリティとして担当する「FMジャズ喫茶Pitch」が2016年11月より新しくスタートします。放送時間は従来の「ようこそオーディオルーム」と同じ土曜日夜の10時から11時です。この番組では、マスターを知立のジャズ喫茶グッド・ベイトの神谷さんが担当され、なんとなくいつもいる常連客の一人をぼくが担当し、ジャズ愛好家の大橋さんがジャズ喫茶を訪れ、ジャズの音楽をかけながらジャズ談義をかわすという構成です。
 11月放送分の収録(2回で計2時間)が10月に行われました。ジャズのLPを3人で持ち寄り、演奏を聴きながらああだ、こうだと言うわけですが、初めてのことでどんなLPを選ぶのか迷いましたが、ぼくは1回目は「ジャズを聞き始めた1960年代でのLP」、2回目は大好きな「スタン・ゲッツの歌もの演奏」から選定しました。1回目のテーマは当然よく聞いた当時の演奏から選びましたが、2回目のテーマについては、改めて手元にある音源を聞きなおして選びました。そうすると今まで気が付かなかった新しい発見がありました。こういう発見ができることが番組に参加させてもらって良かったことの一つです。準備段階では6曲選定しました。

 放送で実際に使用したのは、アルバムWest Coast JazzよりSummertimeとアルバムBlue Skiesより同名曲の2曲です。特にBlue SkiesはCDしか発売されていない曲ですが、今回あらためて大変すばらしいと思ったので、原則LPで選択しようという中であえて紹介させていただきました。今回は紹介できませんでしたがStan Getz Quartet In ParisというアルバムにあるWhen The World Was Youngという曲は、もともとはシャンソン曲で、アニタ・オディがしっとりと歌っているのを聞いて好きになったのですが、ゲッツも素晴らしく歌っています。またここには取り上げなかったのですが、Dear Old Stockholm(この曲についてはマシュマロ・レコードの上不社長の解説が優れています)とかStan Getz Quartet At LargeというアルバムのFolks Who Live On The Hillといった曲もゲッツならではの素晴らしい歌心を聞かせてくれます。
 またこのStan Getz Quartet At Largeというアルバのことについて、2015年1月16日の雑記帳に書きましたが、その中で誤って書いたこととか、追加したほうが良いことについて上不社長よりアドバイスをいただきましたので、ここに追加しておきます。「このアルバムは1960年ゲッツが33歳の時に、コペンハーゲンでライブ演奏を行ったものを録音したものである」と書きましたが、実際にはライブ演奏ではなく、コペンハーゲンにあるKildevangs Churchという教会で録音したものである。また「晩年のゲッツの演奏は真剣勝負をしているかのような緊張感と凄みを感じるが、この時の演奏はむしろゆったりとしたゆとりを感じられ、聞いていてこちらもリラックス出来るのである」と書きましたが、アルバムタイトルのAt Largeという言葉は「捕らわれないで、逃走中で、自由で、全体として、一般の、あまねく」などといった意味での使い方があり、リラックスした演奏もアルバムタイトルの狙いかもしれないとも考えられます。
 1974年にビル・エヴァンスと共演したBut Beautifulというアルバムの中のThe Peacocksという曲もエヴァンスとのデュオで緊張感のある素晴らしい演奏です。この曲については作曲者でありピアニストでもあるJimmie Rowlesと共演したThe Peacocksというアルバムでも素晴らしい演奏をしています。また晩年の緊張感と凄みを感じさせられる演奏として、ケニー・バロンとのデュオアルバムPeople Timeに収録されているFirst Songも圧倒的迫力の演奏である。これ以外にもゲッツの歌物を探せば素晴らしい演奏はいっぱいあると思います。彼の歌心は天才でなければ表現できない唯一無二のものである。
 11月から始まる「FMジャズ喫茶Pitch」を是非楽しんでいただけたらと思います。(この放送はインターネット・ラジオでも聞けます)「ゲッツの歌もの演奏」については、続きをどこかで放送に取り上げればと思っています。


「老耄と哲学-思うままに」梅原猛著 (2016.10.28)

老耄(ろうもう):(「老」は70歳の老人、「耄」は80・90歳の老人)老いぼれること、老いぼれた人

ぼくが以前勤めていた会社と関連の深い会社に、豊田中央研究所というのがあり、当時そこの所長をしていたのが梅原半二という人で梅原猛さんの実父である。そんなことから梅原猛さんを知り、その著作には関心を持ち、特に仏教関係を中心に読んできた。

 『学問のすすめ』佼成出版社
 『仏教の思想』角川書店
 『仏像のこころ』集英社
 『世界と人間-思うままに』文藝春秋
 『梅原猛の授業 仏教』朝日新聞社
 『梅原猛の授業 道徳』朝日新聞社
 『歓喜する円空』新潮社
 『老耄と哲学 思うままに』文藝春秋
 『呪の思想-神と人との間』(白川静共著)平凡社
そのなかで、昨年(2015年)に「老耄と哲学―思うままに」という20年を超える新聞連載「思うままに」シリーズの最新刊が文芸春秋社より発行された。そしてこの本が梅原さんの母校である愛知県の東海高校の今年(2016年)3月の卒業生に、卒業祝いの記念品として同窓会より贈呈された。
そんなこともあり、ぼくも早速この本を購入し読み始めた。梅原さんはこれからの人間が生きていくためには、デカルトから始まった理性的な人間の科学技術があれば地球をコントロールできるという、人間中心の世界観では人類は滅んでしまうのではないかと考え、新しい哲学が必要と考え、その根本には日本の仏教思想よりの「草木国土悉皆成仏」という言葉で表される共生の哲学を確立する必要があると考え、老耄といわれる年代になってもまだ思索の手を緩めないというお元気さである。そしてこの本には梅原さんの哲学的思索や科学技術に対する批判、政治に対する批判、芸術に対する批判、人物交遊録など多方面にわたる「思うままに」が語られている。
(ここでいう批判とは、人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること)
ぼくの在籍した会社の大先輩にも80歳を過ぎてもまだ朝からドイツ語(本人は科学技術に関するドイツ語の本ならばすらすら読め、我々にも講義をしていただいたというハイレベルの方)の勉強をされていた方がいて、ぼくも老いてもかく有りたいと思っていた。梅原さんはそれにさらに輪をかけての傑人であると思う。
この本に書いてある梅原さんの価値判断には、必ずしもすべて共感するとはならなくても、この年代になっても批判精神を失わず、色々と「思う」ことができる素晴らしさはぜひ見習いたいと思っている。それにしてもこの本は、我々のような「老耄」になりかけているものには是非読んでほしい本であるが、高校を卒業した若い諸君にこの素晴らしさがわかるか危惧するところもある。今はこの本の素晴らしさがわからなくても、先輩からのよき贈り物としていつまでも手元に置いておくと、その良さがわかる時が来ると思う。


「プレバトの夏井いつき先生」 (2016.10.31)

感動を表現するのに、感動という言葉を使わないで相手に伝えなさい。嬉しいということを表現するのに、嬉しいという言葉を使わないで相手に伝えなさい。・・・といった文章の書き方を教えてもらったことがある。そのやり方の一つが、そういった感動が生じる場面を具体的に映像として表現することである。例えば「御宿かわせみ」平岩弓枝著では「この部屋に入った時から、源三郎は花嫁の背の高さに注目していた。そして、今綿帽子から、僅かにのぞいている花嫁の顔で、それが誰か知ったようであった。「では、杯事を・・・」通之進がうながして、三々九度の式が始められた。杯を持つ花嫁の手がふるえている。東吾は、源三郎の顔が赤くなっているのに気づいた。先刻までの屈託したものがなくなって、そのかわりに、なにか思いつめたような、激しい雰囲気が源三郎を包んでいる。盃が花婿に廻った。源三郎もぶるぶると震えているのが、東吾にはみえた。彼の眼が涙ぐんでいるようである。そして花嫁のうつむいた頬にも涙が幾筋も、燭台の灯影に光っている。ふっと、どこかですすり泣きが聞こえた。それほどに厳粛な三々九度である。・・・・・源三郎祝言」より。
もう一つが比喩である。比喩の使い方で素晴らしいと思った作家が村上春樹である。彼はジャズという音楽にも造詣が深く、スタン・ゲッツについて次のような文章を書いている。アルバムAt StoryvillにおけるMoveという曲の演奏について、「ゲッツの演奏は見事だ。それは天馬のごとく自在に空を行き、雲を払い、目を痛くするほど鮮やかな満天の星を、一瞬のうちに僕らの前に開示する。その鮮烈なうねりは、年月を超えて、ぼくらの心を激しく打つ。なぜならそこにある歌は、人がその魂に秘かに抱える飢餓の狼の群れを、容赦なく呼び起こすからだ。・・・・Portrait in Jazz」より。
と、長々と前書きを述べたが、面白いと思ったのはプレバトというテレビ番組の中で、ゲストが季題を示す写真を見て俳句を作り、それを俳人の夏井いつき先生がかなり辛口な表現で評価・添削する番組である。たまたま僕が見た中で一つの例を挙げると、
  「江の島の背景に夕日が沈む」写真を見てゲストの田原総一朗さんが詠んだ俳句。
  「行く夏を 惜しむ夕日が 浜てらす」
この田原総一朗さんが詠んだ俳句に対して、夏木いつき先生は次の3点を指摘した。

・散文的に写真を説明しただけで、詩情がない。
・行く夏という季語を使えば惜しむという感情が含まれている。
・夕日は照らすものであり、てらすという言葉は無駄である。
ということで、無駄な言葉を取って、具体的な映像が浮かび上がるように、この句を次のように添削した。
「行く夏や 夕日の浜に 国憂う (又は)一人立つ、妻と犬、烏帽子岩」
俳句というわずか17文字の中に、季語を入れながらある種の感動を映像として表現しようとすると、一字一句の言葉使いにも神経を使い、無駄な言葉使いは避け、連想される映像の中より読者に作者の感動を読み取ってもらうという作業が欠かせないようである。
そんなことを思ったので、冒頭のような長々とした前書きに至ったのである。






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